富取風堂

富取風堂(とみとり ふうどう、1892年(明治25)~1983年(昭和58))
東京都出身。本名は富取次郎。

松本楓湖に師事。
同門であった今村紫紅、速水御舟、小茂田青樹らと共に赤曜会を結成する。
戦後は、主に院展に出品。1966年、第51回院展にて文部大臣賞を受賞。
師をよく継承し、大和絵風の花鳥図を得意とした。

印名は「楓堂」「風堂」「風」「富次郎印」「風堂畫印」など

日本美術院同人、評議員、千葉県文化功労者。

富田渓仙

(とみた けいせん 明治12年(1879)~昭和11年(1936) 57才没)
福岡県に生まれる。

12歳で狩野派を学ぶ。
明治29年、京都へ出て、都路華香の書生になり四条派を学ぶ。

仙崖、富岡鉄斎に師事。
文展出品作「鵜舟」などが横山大観に認められ院展へ参加。
大正4年第2回院展出品作「宇治川の巻」、昭和8年第20回院展出品作「御室の桜」などが代表作。

桜をこよなく愛した。車折神社には渓仙が寄贈した渓仙桜がある。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713
https://toobi-tocfa.or.jp/judge/

富岡鉄斎

(とみおか てっさい、天保7年(1836)1月25日~大正13年(1924)12月31日 89才没)
京都生まれ。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、
明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。
字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。

耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を学ぶ。
国学や勤王思想、漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一惠に学んだ。

「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。

彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。
80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。
生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、
梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。
日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。

兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺の鉄斎美術館と、西宮市の辰馬考古資料館に多くの作品が収蔵されている。

鑑定人・鑑定機関

大阪美術倶楽部鑑定委員会
〒541-0042 大阪市中央区今橋2-4-5
TEL:06-6231-9626
http://daibi.jp/service/kantei/

寺島紫明

寺島紫明(てらしま しめい、1892年(明治25)~1975年(昭和50))
兵庫県明石市出身。本名は徳重。

伊東深水と並び名美人画家として称される。
幼少の頃から絵と詩歌、文学書に親しみ、21歳の時に鏑木清方に師事。
師のもつ情緒的な画風を受け継ぐ。
これに独自の絵画的感性を加えて、純度の高い美人画を生みだした。

昭和11年以降は関西に帰り、西宮に居を構えて芦屋など近隣の婦人たちを多く描いている。
文展・帝展所属。また奥村土牛らと九皐会に参加。
戦後は、日展審査員・参与を務める。
芸術院賞受賞。

印名は「紫明」 など

寺崎広業

寺崎広業(てらさき こうぎょう、1866年(慶応2)~1919年(大正8))
秋田県出身。慶応2年2月25日生まれ。本名は幼名が忠太郎、後に広業。字は徳郷

初め小室秀俊に狩野派を、四条派の画技を平福穂庵に学ぶ。
また、南画を菅原白龍に学び、日清戦争に従軍後、各諸派と独自の研究を取り入れる。

第1回帝展より審査員を務め、日本美術協会などで活躍、大正6年に帝室技芸員を拝命。
大正8年2月21日53歳で没する。
明治、大正を代表する画家。

印名は「騰龍」 「騰龍軒」 「騰龍軒主人」 「騰龍軒圖書」 「寺崎廣業」 「廣業印信」
「宗山」 「秋水共長天壹色」 など

土屋礼一

土屋礼一(つちや れいいち、1946年(昭和21)~(現在))
岐阜県養老町出身。本名は禮一。武蔵野美術大学卒

父、土屋輝雄(日本画家)の指導を幼少時より受ける。
大学卒業後、1967年より加藤東一に師事。
同年の第10回新日展にて初入選。以降、日展、日春展に出品する。
日展では、69年改組第1回展にて特選・白寿賞、76年第8回展にて特選。
85年、第17回展で会員賞を受賞、日春展でも71年・72年に連続日春賞受賞を筆頭に
日春賞を計3回、奨励賞を計2回受賞するなど、日展の代表的な画家として長年活躍を示す。
2007年には前年の日展出品作「軍鶏」により日本芸術院賞を受賞する。

そのほか、日本秀作美術展を始め、国内外の企画展・公募展にも積極的に出品を重ねる。
90年のMOA岡田茂吉賞展では日本画部門で優秀賞を受賞。

個展では、横浜・岐阜・京都・大阪の高島屋を中心に各地の百貨店・ギャラリーにて多数開催。
作品は、自然の持つ内面的な美を最大限表現することに務め
山・海・空などの風景を虚飾を極力抑えて描写し、その精神性の高い作品は高く評価されている。

印名は「禮」など

日展会員、評議員、理事。

土田麦僊

土田麦僊(つちだ ばくせん、明治20年(1887)2月9日~昭和11年(1936)6月10日 50才没)
佐渡島の農家の三男として生まれる。本名は金二。

竹内栖鳳に師事。
京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業。
小野竹喬とともに別科に入学する。

大正7年(1918)、同じ京都市立絵画専門学校出身の同士であった
村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花とともに国画創作協会結成。
大正10年(1921年)、麦僊は竹喬、晩花とともに渡欧。
約1年半に亘り、西洋絵画の研究と制作を行っている。

コレクターとしての一面もあり、 渡欧中にルノワール、セザンヌなどの西洋絵画を収集している。

月岡栄貴

月岡栄貴(つきおか えいき、1916年(大正5)~1997年(平成9))
東京都出身、東京美術学校日本画科卒。本名は栄吉。師、前田青邨

1942年に東京美術学校を卒業、卒業後は48年に院展に初入選。
以降同展を中心に出品、入選を重ねる。
56年に奨励賞を受賞(その後57/68/72/75/79/80にも同賞受賞)となり、
81年に日本美術院賞・大観賞を受賞し、日本美術院同人に推挙、85年には文部大臣賞、
87年には内閣総理大臣賞にそれぞれ選出されている。
その間、春の院展にも出品を続け春展賞など多数の受賞となる。

日本美術院賞(大観賞)受賞作の「やまたのおろち」に代表されるように
古典文学やおとぎ話を題材にした物を多く制作し、特に登場人物の描写に優れる。

印名は「栄貴」 など

蔦谷龍岬

蔦谷龍岬(つたや りゅうこく、1886年(明治19)~1933年(昭和8))
画家を志し、同じ東北出身の寺崎広業に画を学び文展~帝展にて活躍を示す。
1918年代12回文展で特選、さらに21年に第3回帝展でも特選を受賞。
その後帝展審査員なども歴任した。

画業半ばにしての早逝の為、現存作品も少なく画歴も比較的少ないが、
大正~昭和初期を代表する大和絵風画家として知られている。

印名は「蔦谷」 「龍岬」 「龍岬所作」 「竜岬」(「竜山甲」) 「龍岬之印」 「蔦谷龍彦」 「龍彦」 など

都路華香

都路華香(つじ かこ、1870年(明治3)~1931年(昭和6))
京都市出身。本名は辻 良景。

1880年より幸野媒嶺の門に入り、画技を修得。
1890年、第3回内国勧業博覧会にて褒状。
1907年、第1回文展及び、1916年、第10回文展にて特選を受賞するなどの活躍を示す。
竹内栖鳳、谷口香嶠、菊池芳文らと共に媒嶺門下の四天王と称される。

24年、京都市立絵画専門学校教授に就任して、後進の指導に尽力。
26年、同校校長および京都市立美術工芸学校校長に就任、25年に帝国美術院会員就任。

四条派写実的な画風を研究していたが、
後年には南画水墨や洋画技法を加えた大胆な構図と表現で独自の作風を展開。
代表作に「渓鴬惜春図」、「石清水」、「埴輪」など

印名は「都路華香」 「都路良景」 「都良景印」 「都路珍賞」 「華香」
「華香居士」 「華香墨縁」 「良景」 「良景畫印」(「良景画印」) 「都路」
「都」 「子春」 「字子春」 「子春印」 「某領一枝」 「生涯澹泊人」
「天作境」 「瀟酒出塵」 「華逐馬蹄香」 など