梶喜一 (かじきいち 明治37年(1904)11月7日~昭和55年(1980)2月14日 75才没)
京都市生まれ。都地華香・西村五雲・山口華楊に師事。
京都絵専卒。
鯉の名手として知られる。
日展特選、白寿賞受賞。日展初の審査員をつとめる。
梶喜一 (かじきいち 明治37年(1904)11月7日~昭和55年(1980)2月14日 75才没)
京都市生まれ。都地華香・西村五雲・山口華楊に師事。
京都絵専卒。
鯉の名手として知られる。
日展特選、白寿賞受賞。日展初の審査員をつとめる。
加倉井和夫(かくらい かずお、1919年(大正8)~1995年(平成7))
神奈川県横浜市出身。東京美術学校日本画科卒。
美術学校卒業後、1947年第3回日展にて初入選。以降入選を重ねる。
58年、61年に特選、63年に菊花賞を受賞。67年に会員に推挙。
この間、54年からは高山辰雄らと共にグループ展(一采社)にも参加。
57年より山口蓬春にも師事している。
1974年、日展内閣総理大臣賞、81年には前年の日展出品作「青苑」により日本芸術院賞を受賞、
同年に芸術院会員、90年に日展常務理事にそれぞれ就任。92年には勲三等瑞宝章を受章した。
風景、花鳥を中心に淡い色彩と確固たる描写力で自然界に内包する美を表現、
また、緊密な構成で詩情豊かな作品を残す。
印名は「和」「わ」など
海北友松(かいほう ゆうしょう、1533年(天文2)~1615年(慶長20))
近江の人。師、狩野元信・狩野永徳。海北派の祖。
狩野派を学んだ後独自に宋、元の画風を研究。
装飾画様式を樹立。桃山期の大家として知られる。
当時の将軍豊臣秀吉、後陽成天皇らからも用命を受け、障壁画、屏風絵などを製作した。
画風は、花鳥、山水、人物などを主とし水墨、彩色ともに優れた。
代表作「雲龍図」が重文指定
印名は「海北」 「友松」 など
海北友雪(かいほう ゆうせつ、1598年(慶長3)~1677年(延宝5))
海北友松の長男。本名は道照、友雪
父の画風を受け継ぎ、装飾的画法を確立していく。
海北友松・狩野探幽に師事。
春日局の推挙により、徳川家光の愛顧を受ける。
さらに子、海北友竹も画業を受け継いでおり、海北派の存続に貢献。
印名は「海北」 「友雪」(「又又雪」) 「友雪斎」 「道暉」 など
(おやまだじろう 1914~1991)
日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html
文京アート
〒104-0042 東京都中央区入船1-3-9長﨑ビル9F
http://bunkyo-art.co.jp/index.html
小山硬(おやま かたし、1934年(昭和9)~(現在))
熊本県出身。東京芸術大学日本画科卒。
熊本県宇土市に生まれるが、幼少時は満州にて過ごす。
戦後11才の頃に帰国、帰国後は山形県にて過ごすが中学時代より画家を志す。
東京芸大では日本画を専攻。卒業後は前田青邨に師事する。
1961年、第46回院展にて初入選。以降、院展を中心に出品を重ねる。
71年、第56回院展にて日本美術院賞・大観賞、78年63回院展美術院賞・大観賞、
81年66回展文部大臣賞、88年第73回展内閣総理大臣賞など院展を代表する画家として活躍。
1970年、春の院展春季展賞(そのほか奨励賞数回)、73年第2回山種美術館日本画大賞展にて
優秀賞などを受賞、また、68年より愛知県立大学日本画科助手、79年より同大学助教授、
81年より同校教授として後進の育成・指導にも尽力を注ぐ。
制作当初はキリスト教(隠れキリシタン)の信仰や伝統的文化を題材にした
天草シリーズを展開していたが、85年の訪中をきっかけに中国文化を題材にしたシリーズや、
日本の富士を題材にした作品を制作し岩彩による人物表現の巧さが特徴。
印名は「硬」「小山硬」など
小茂田青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24)~1933年(昭和8))
埼玉県出身。本名は小島茂吉。号は錦仙、大河、空明、青樹。
元々は小島姓であったが、幼少時に叔父の養子となり、小茂田姓となる。
1908年に画家を志して上京、松本楓湖の画塾「安雅堂塾」に入塾。
11年、第11回巽画会にて初入選。翌年には褒状、13年には三等銅賞を受賞。
14年、再興院展に参加、また同年今村紫紅を中心とした赤陽会の結成に参加。
以降、両展を中心に作品を発表(赤陽会は紫紅が没した為17年に解散)。
21年、院展同人に推挙される。
30年より帝国美術学校にて後進の育成にも尽力を示す。
花鳥、静物、風景など扱い画題は幅広いが確たる写生を基とした
現実味のある克明な写実技法が特徴で日本画新時代の基盤を築いた一人。
印名は「青樹」
小村大雲 (おむらたいうん 明治16年(1883)1月9日~昭和13年(1938)2月20日 54才没)
島根県楯縫郡平田町(現出雲市平田町袋町)に生まれる。
名は権三郎、字は厳座、子荘。別号は豊文、赤松子、碧雲湖畔人、豊瑞、豊花等。
京都で修行し、山元春挙に師事する。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が
第6回文部省美術展覧会で第2科3等賞6席に入賞、
以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。
大正8年、第1回帝国美術展覧会で「推薦」にあげられ永久無鑑査となる。
以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。