歌川豐國

歌川豐國(歌川豊国) (うたがわ とよくに、1769年(明和6)~1825年(文政8))
江戸出身。本名は熊吉のち熊右衛門

江戸芝神明前の人形師の子として生まれる。
歌川派創始者の歌川豊春の門下となり役者絵、芸者美人絵など人物図を多く残し
当時として絶大な人気を確立。
また、門下からは二代豊国を襲名する歌川豊重、3代豊国を襲名する歌川国貞をはじめ、
数多くの画家を輩出しており、江戸後期以降の歌川派隆盛の礎を成し、
歌川広重(安藤広重)が入門を希望した際には、門生多数で断られたほどであった。

役者画、美人画のほか幽霊図、春画などにも秀作を多く残している。

印名は「豐國」(「豊国」) 「一陽斎」など

歌川豐國

歌川豐國(歌川豊国) (うたがわ とよくに、1769年(明和6)~1825年(文政8))
江戸出身。本名は熊吉のち熊右衛門

江戸芝神明前の人形師の子として生まれる。
歌川派創始者の歌川豊春の門下となり役者絵、芸者美人絵など人物図を多く残し
当時として絶大な人気を確立。
また、門下からは二代豊国を襲名する歌川豊重、3代豊国を襲名する歌川国貞をはじめ、
数多くの画家を輩出しており、江戸後期以降の歌川派隆盛の礎を成し、
歌川広重(安藤広重)が入門を希望した際には、門生多数で断られたほどであった。

役者画、美人画のほか幽霊図、春画などにも秀作を多く残している。

印名は「豐國」(「豊国」) 「一陽斎」など

上村松篁

上村 松篁(うえむら しょうこう、明治35年(1902)11月4日~平成13年(2001)3月11日 98才没)
日本画家。京都府京都市中京区生まれ。本名、信太郎。
母は近代美人画の大家、上村松園。息子も同じく日本画家の上村淳之である。

1921年(大正10年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。同年、『閑庭迎秋』が帝展に初入選。
1928年『蓮池群鴦図』が帝展の特選。1948年奥村厚一、秋野不矩、山本丘人らと日本画の団体『創造美術』を結成する。写実に基づいた格調の高い花鳥画を得意とする。

勲三等を受勲、京都芸大名誉教授、創画会会員、日本芸術院会員
文化功労者、昭和59年、文化勲章を受章。

上村松園

(うえむら しょうえん、明治8年(1875)4月23日~昭和24年(1949)8月27日 75才没)
本名:上村 津禰(つね)常子(つねこ)ともいう。
京都下京四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。女性の目を通して「美人画」を描いた日本画家。
同じく日本画家の上村松篁(しょうこう)は息子、上村淳之(あつし)は孫にあたる。

1887年、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学。
鈴木松年(すずきしょうねん)に師事。松園と号す。
1890年、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞。
(この絵を、来日中であったヴィクトリア女王の三男アーサーが購入し話題となった)。
1941年、帝国芸術院会員
1948年、文化勲章受章(日本人女性として初)
1949年、逝去。従四位に叙される

京の伝統文化に育まれた松園は、明治・大正・昭和を通して生涯、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)を念願として女性を描き続けた。

代表作に「焔」「序の舞」。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713

上村淳之

上村 淳之(うえむら あつし、昭和8年(1933)~ )
日本画家、日本芸術院会員。本名・淳(あつし)。奈良市在住。

上村松園は祖母で、親子三代続いての芸術院会員。上村松篁の子として京都に生まれる。父同様、花鳥画を描く。
1959年(昭和34年) 京都市立美術大学(現:京都市立美術大学)専攻科を修了
1956年(昭和31年) 新制作協会展初入選
1994年(平成6年) 松伯美術館館長 1995年(平成7年) 日本芸術院賞受賞 創画会会員、京都市立芸術大学教授。現代日本画の花鳥画の第一人者。

岩田正巳

岩田正巳(いわた まさみ、1893年(明治26)~1988(昭和63))
新潟県出身。東京美術学校
日本芸術院会員、日展評議員歴任

松岡映丘に画技を学ぶ。
1921年、師、映丘と共に新興大和絵会を発足。
帝展にも出品し、24年第5回帝展で初入選、30年第11回帝展、34年第15回帝展で特選を受賞。

初期の頃は大和絵の代名詞ともいえる歴史風俗や人物画を制作していたが、
壮年期からは大和絵の表現を含ませながらも独自にインドや中国に外遊し
石仏シリーズや陶俑シリーズさらにはインド地方の女性像などを描き、
エキゾティックな画風へと変貌を遂げる。
1961年、日展出品作品「石仏」が認められ日本芸術院賞を受賞、78年には日本芸術院会員に就任している。

印名は「正巳」 「麻佐巳印」 「麻」 「万乍美」 など

岩田専太郎

岩田専太郎(いわた せんたろう、1902年(明治35)~1974(昭和49))
東京都出身。

菊池契月、伊東深水に師事。
昭和時代の新感覚挿絵作家として一世を風靡し独自の女性像を得意とした。
氏の描く女性像は艶やかで、その色香を伝える描写力は登場人物の個性を引き出し、
司馬遼太郎「竜馬が行く」や松本清張「美しき闘争」などをはじめ、
多くの風俗時代小説の挿絵に起用され一般にも多いに評価を得た。

印名は「SEN」「SENTRO」「せんたらう」「専太郎」篆書崩印「岩」崩印「S」など
作品は東京国立近代美術館などに所蔵されている。

岩崎巴人

岩崎巴人(いわさき はじん、1917年(大正6)~(現在))
東京都出身。本名は、彌壽彦、弥寿彦。川端画学校卒業

川端画学校卒業後1937年第9回青龍社展に初入選。
38年、小林古径に師事、同年第25回院展においても初入選となる。

戦中は召集となったが、帰国後も院展にて活躍して院友に推挙されるが退会。
51年、新興美術院の最高に参加、さらに57年に日本表現派を結成した。
71年、インドを訪れて以降、仏教、仏画の世界に傾倒する。
77年、京都永観堂禅林寺にて出家得度(法名:善空)となる。

仏画家として画風を確立以降は、鉄斎風の大胆なフォービズムを展開し
自由な表現を基本として現代水墨画の大家となる。

印名は「巴人」(「龍」)「日本巴人」「縄文立財」など