岩佐又兵衛

岩佐又兵衛(いわさ またべい、1578年(天正6)~1650年(慶安3))
摂津国伊丹(兵庫県伊丹市)出身。本名は勝以

伊丹の有岡城主荒木村重の子として生まれる。
村重が、織田信長に謀反を企てた為、2歳のときに石山本願寺に預けられ母方の岩佐姓を名乗る。
他の兄弟たちは、武家として再興を目指したが、画業にて立身を決する。
土佐派・狩野派・雲谷派・海北派などの諸派を修得。
また画の師は不明だが、土佐光則説、狩野松栄説がある。
1616年に越前福井藩主に仕えて以後、約20年間福井に居を構えた。
37年に徳川家光から招かれて幕府の御用絵師となる。
代表作に「三十六歌仙」、「源氏物語図」、「伊勢物語図」などを残している。

印名は「勝以」 「碧勝宮圖」(「碧勝宮図」) など

岩橋英遠

岩橋 英遠(いわはし えいえん、明治37年(1903)1月12日~平成11年(1999)7月12日 96才没)
北海道空知郡江部乙村に生まれる。20歳頃まで農業に携わりながら独学で油絵を描く。
日本画家を志して21歳で上京。山内多門に師事。

院展同人として活躍し、日本画新時代の一翼を担う。
大自然を主題に雄大な作風で、洋画の手法も取り入れつつ、独自の自然観照による写実的でありながら幻想的でもある印象のある絵画世界を創造し続けた日本画壇の重鎮である。

東京芸術大学教授
日本美術院理事
日本芸術院賞
日本芸術院会員
平成元年文化功労者
平成6年文化勲章を受章。

三男である岩橋崇至は、国際的な山岳写真家。

岩壁冨士夫

岩壁冨士夫(いわかべ ふじお、1925年(大正14)~2007年(平成19))
神奈川県出身。東京美術学校日本画科卒業。日本美術院同人

東京美術学校日本画科を卒業後は奥村土牛、小谷津任牛に師事。
日本美術院展に出品を重ねる。
1959年、同院会友に推挙、75年に美術院賞を受賞、77年から7年連続で奨励賞、
83年には横山大観賞を受賞して日本美術院同人となり、92年には内閣総理大臣賞(最高賞)を受賞。

独特のタッチで印象的な人物や風景画を展開、内外からあふれる精神的なパワーを表現。

印名、「富士夫」 など

岩井昇山

岩井昇山(いわい しょうざん、1870年(明治3)~1953年(昭和28))
東京都出身。本名は小五郎、号は昇山

京都伏見の甲冑師で、明治以降は太政官を務めた岩井秀一の子として東京に生まれる。
幼少のころより、谷文晁派の画家吉沢雪庵に南画を学び、
ついで松本楓湖の画塾安雅堂に入塾、歴史画を師事。
1902年、第12回日本絵画協会日本美術院連合絵画共進会、1913年表装競技会など
ほんのわずかな展覧会のみに参加、孤高の立場をとっていたと言われ現存作品も非常に少ない。
近年その評価が見直されつつある画家の一人。

極度の人嫌いで変人扱いされ、楓湖門からも破門にされたため大成できなかったとも言われる。
数少ない現存作品からは山水図に秀作が多く見られ、透明感のある清澄な筆致で
独自の境地を確立していたとも評価されている。

印名、「昇山」など

入江波光

入江波光(いりえ はこう、1887年(明治20)~1948年(昭和23))
京都府出身。本名は幾治郎。京都市立美術工芸学校、京都絵画専門学校卒

1899年日本画家森本東閣に師事。雅号「波光」を授かる。
1901年~1913年まで京都美術工芸学校、さらに京都絵画専門学校において竹内栖鳳らに学び画技を修得。この頃までは、画壇を離れ円山、四条派などの古画模写などを中心に独自の活動する。
1919年、小野竹喬、榊原紫峰、土田麦僊、村上華岳ら京都の新進気鋭画家たちが
国画創作協会を創立すると同会に出品し、翌年には会員となる。
しかし解散後は、再び画壇から離れ、古典的な画風を主として独自の画境を築いた。

「芸術者」呼ばれることを嫌い、あくまで「技術者」であることに誇りを持って製作、
あまり画壇と関係を持たなかったため、国画会賞以外に数多くの受賞をしているわけではないが
日本を代表する画家の一人として現代においても高い評価を受けている。

印名は「波光」 「波」 など

今野忠一

今野忠一(こんの ちゅういち、1915年(大正4)~ 2006年(平成18))
山形県出身。本名は忠市。日本美術院同人・理事

はじめは、地元の南画家後藤松亭に画のほどきを受けていたが、
本格的に画家を志して1933年に上京、児玉 希望の門下となる。
その後、郷原千靭の個展を見て感銘を受け千靭の画塾草樹社に入塾。
40年、院展初入選となるが、戦時中は郷里に疎開して一時製作を中止。

戦後、再び院展に出品、入選を重ねる。54、56、59年に奨励賞・白寿賞、55年日本美術院賞・大観賞、
57年日本美術院次賞・大観賞、58年日本美術院次賞・大観賞・文部大臣賞、
77年に内閣総理大臣賞と次々に受賞を重ね59年に日本美術院同人に推挙される。
以降、院展看板作家の一人として出品を続けた。

山岳風景や樹木、木岐をモチーフに緻密な描写によって自然の力強さや
(冬を描いた作品では)過酷さなど表現し生命力溢れる作品を展開している。

印名は「忠」 「忠一」 「忠市」 など

今村紫紅

今村紫紅(いまむら しこ、1880年(明治13)~1916年(大正5))
神奈川県出身。本名は寿三郎、号は紫紅。日本美術院同人

1897年、松本楓湖の画塾に入り画技を熟練する。
1901年、安田靫彦らと紅児会を結成。
新時代日本画の創造に奔走し日本絵画共進会・巽画会・文展などに出品。
1914年、インド外遊をはさみ小茂田青樹らとの赤曜会結成や日本美術院再興にも貢献し、
日本美術院同人に推挙。

大和絵の技法を基本としながらも琳派・印象派・南画などを織り交ぜた独自の技法として評価され
常に斬新で進取的な画風を展開し後の有数日本画家たちに多大な影響を与えた。
37歳という若さで病歿。

代表作「熱海の巻」が重文指定を受けている。

印名は「紫紅」「紫」ほか

今尾景年

今尾景年(いまお けいねん、1845年(弘化2)~1924年(大正13))
京都出身。本名は(幼名)猪三郎、(永歡)永歓。通称は子裕。号は聊自楽居、聊自斎、景年。

初めは浮世絵師の梅川東居について学ぶ。
その後鈴木百年の門下となり景年の号を使用し始める。
生家の家業であった友禅図案、上絵描きの仕事もしていたが1868年の父の死亡を機に画業に専念。

明治前半期は京都博覧会、内国共進会、日本美術協会などに出品して受賞を続ける。
国内では、京都画壇を中心に人気画家として名を上げていた。
1893年、シカゴ万博に出品し、緻密な描写が高い評価をされ、名誉賞牌を受賞。
次いで、1900年のパリ万博、03年のセントルイス万博にて、金牌を受賞したことにより
世界的に高い評価となる。
1904年には一躍帝室技芸員を拝命、19年には帝国美術院会員に就任するなど
伝統保守派として、晩年まで後進に指導するなど日本画壇に残した功績は大きく
門下には、子息の今尾景祥をはじめ、木島桜谷ら後の京都画壇の代表者を多く育てた。

今尾景祥

今尾景祥(いまお けいしょう、1902年(明治35)~1993年(平成5))
京都出身。京都市立美術学校卒

日本画家の大家として知られる今尾景年の養嗣子となり、その画法を受け継ぐ。
画壇にはあまり所属せずに個展を中心とした制作活動を行った。
目立った受賞などはないが、皇室献上数回など高い評価を得た。
さらに、各寺院の襖画を担当し、代表的な仕事では久保田金僊とともに
京都黒谷の金戒光明寺方丈の襖絵「金地襖絵(虎図)」を揮毫している。

印名は「景祥」 「今季縣印」 「今尾静觀」(「今尾静観」) など