小林一茶

小林一茶(こばやし いっさ、1763年(宝暦13)~1827年(文政10))
信濃国(長野県)出身

農家の子として生まれ、3歳のときに生母と死別。
8歳のときに、継母を迎えるもなじめずに15歳のころに江戸に奉公に出る。
その頃から小林竹阿、溝口素丸、森田元夢らについて俳諧を学び、俳句の道を志す。
29歳の頃に帰郷、以降は近畿、九州、四国など西日本を遊学する。
この間、多くに俳人と親交を重ね、交流句集「たびしうゐ」「さらば笠」などを刊行。

父の没後は、財産分配により継母、弟と十数年間にわたり争い、三度の結婚の間に
三男二女を設けるも妻一人、子4人が早世するなど家庭的には恵まれなかった。
そうした家庭環境をモチーフにした自虐的な句を展開。
そのほか風土と共に生きる百姓的な視点で物事を捉え方言を多用した作品を多く残す。

北原白秋

北原 白秋(きたはら はくしゅう、明治18年(1885)1月25日~昭和17年(1942)11月2日 57才没)
熊本の南関に生まれ。

1901年、同人雑誌に詩文を掲載。この年はじめて「白秋」の号を用いる。
1904年、早稲田大学英文科予科に入学。
この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれる。
1905年、『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選。
1906年、新詩社に参加。
1908年、『謀叛』を発表し、世評高くなる。
1911年、第二詩集『思ひ出』刊行。
1941年、芸術院会員。

詩、童謡、短歌以外にも、新民謡の分野にも傑作を残している。
生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、
日本を代表する詩人である。

福岡県に北原白秋記念館がある。

小堀定泰

小堀定泰(こぼり じょたい、1991年(明治38)~(現在))
大徳寺狐篷庵住職

江戸前期の茶匠、造園家として有名な小堀遠州の末裔。
1965年に長年朽ち果てていた近江の狐篷庵(小堀家菩提寺)の本堂及び庭の再興に着手。
一行物茶掛など書を能くする。

印名は「孤篷定泰」など

川端康成

川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日~1972年(昭和47年)4月16日 73才没)
大阪市北区此花町に開業医の家の長男として生まれる。

1920年、東京帝国大学文学部英文学科に入学。
今東光、鈴木彦次郎、酒井真人らと共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画。

1921年、『新思潮』を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛らに評価された。
1923年、『文藝春秋』の同人となった。
1924年、同人雑誌『文藝時代』を創刊。同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。
1926年、処女短篇集『感情装飾』を刊行。

1944年、『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞。
このころ三島由紀夫が持参した「煙草」を評価する。
1948年、日本ペンクラブ第4代会長。
1958年、国際ペンクラブ副会長に就任。
1962年、世界平和アピール七人委員会に参加。
1963年、新たに造られた日本近代文学館の監事となった。
1968年、日本初のノーベル文学賞を受賞。
翌年に新潮社から『川端康成全集』の刊行が始まる。

1985年、茨木市立川端康成文学館が開館する。

小堀遠州

小堀遠州 (こぼりえんしゅう、天正7年(1579年)~正保4年(1647)3月12日 69才没)
長浜市生まれ。近江小室藩主(1万2千石)で江戸初期の大名茶人。
本名は小堀政一。号は狐篷庵、宗甫。

遠州流茶道の祖。
遠江守に任じられた事から、遠州の名称で知られている。
幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、
徳川将軍家の茶道指南役となる。

遠州は、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、
「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げた。

現在は遠州流・小堀遠州流として続いている。
遠州は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れた。
彼の選定した茶道具は和歌から取った銘がつけられ、後世中興名物と呼ばれる。
門下としては松花堂昭乗、沢庵宗彭が有名。

遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物であった。

河田小龍

河田小龍(かわだ しょうりょう、1824年(文政7)~1898年(明治31))
土佐国(高知県)出身。本名は篤太郎、松梁、襲、維鶴

土佐の船役人土羽玉助の子として生まれる。(後に河田と改姓)
幼少時より神童と称されるほどの知識を持ち、16歳の頃に藩の儒学者岡本寧甫に学問を学んだ後、
京都で中村竹洞について書、狩野永岳について狩野派の画技を習得、
さらに江戸長崎などにも遊学して知識を増やす。
また、郷里では、私塾墨雲洞塾を開き多く画、詩文を教え文人画家として活躍。
1852年には藩命により、アメリカに遭難していた藩人中浜万次郎(ジョン万次郎)の取調べに対し
「漂巽記略」としてまとめるなど貢献を示す。
万次郎から聞きだしたアメリカ文化を坂本龍馬に伝えたのも小龍であったとされている。
明治維新後は高知県庁に出仕したが、晩年は京都、広島などに住んで画業に専念した。

印名は「案山子」 「東方先生家風」 「丗外人」 「天巧如枢」 「鍛誉溜」 「山水先生」
「明月江上清風」 「玉淋之印」 「自成一家」 「書禅」 「皤山」 「皤山逸先」
「河小龍印」 「古之人」 「墨雲」 「人北石品不窮貧」 など

川上不白

川上不白 (かわかみふはく、享保四年(1716)~文化四年(1807)91才没)
紀州(現在の和歌山県)新宮藩付家老水野家の家臣、川上五郎作の次男として生まれる。

16歳で京都へ茶の湯の修行に送られ、
表千家七世如心斎天然宗左(じょしんさいてんねんそうさ)の内弟子となる。

1750年、修業を終えた不白は、如心斎の「江戸に千家の茶を広めたい」という意を汲んで江戸に下り、
駿河台に茶室 黙雷庵、後年神田明神境内に蓮華庵、花月楼を建てて門戸を開き、
皇族・大名・旗本をはじめ、豪商、市井一般など多くの社中を集めた。

不白は、上方発祥の茶の湯に江戸の感性を取り入れ、新しい茶風を興しました。
その道統は、江戸千家として連綿と受け継がれています。

九条武子

九条 武子(くじょう たけこ、明治20年(1887)10月20日~昭和3年(1928)2月7日 42才没)
京都で生まれる。

義姉・大谷籌子裏方(大谷光瑞夫人)を助けて仏教婦人会を創設。
1911年、籌子が30歳の若さで早世の際は本部長に就任、同会運営の重責を果たした。
京都女子専門学校(現・京都女子学園、京都女子大学)を設立。
1923年の関東大震災で自身も被災するが一命を取りとめ、全壊した築地本願寺の再建、
震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進した。

歌人としても和歌にも長け、佐佐木信綱に師事。
『金鈴』『薫染』などの歌集がある。

勝海舟

勝 海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし、文政6年(1823年3月12日)~明治32年(1899年)1月21日 77才没)  江戸本所亀沢町の生まれ。

蘭学は、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に学んだ。
蘭学者佐久間象山の薦めもあり、西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。

1860年、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。
帰国後、軍艦奉行に就任。幕府側と倒幕側の間に立ち、江戸城無血開城に尽力した。

神戸に海軍塾、神戸海軍操練所を設立。
維新後は、新政府の海軍大輔、参議兼海軍卿、枢密顧問官。 幕末三舟の一人。

晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、
『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』 などの
執筆・口述・編纂にあたった。

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年(1534年6月23日)~天正10年(1582年6月21日) 49才没)
日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将であり、尾張国の戦国大名であり、政治家である。別名、吉法師、三郎、第六天魔王、うつけ、赤鬼。

応仁の乱後、朝廷や幕府の力は衰えていたが、権威はまだあり、それをかりて全国を号令しようとする戦国大名は数多かった。そして、それに一番最初に成功したのが織田信長である。

信長は、桶狭間で、今川義元を討ち取り、三河の徳川家康と同盟をぶ。
その後、東のことは家康にまかせ、自分は松永久秀に殺された前将軍足利義輝の弟義昭を奉じて
都に入り、これを将軍にした。
信長は近江の浅井氏、越前の朝倉氏を滅ぼし、また仏の権威を盾に、
私欲をむさぼる比叡山の僧兵を焼き討ちにした。
1573年には、将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした。

信長は天下布武への道へ進みだす。
1575年の長篠の戦いで武田勝頼に大勝し、翌年近江に安土城を建てた。
四年後、大阪にあった本願寺を屈服させ、畿内を平定した。
1582年、甲斐の武田氏を滅ぼし、中部地方の大部分を支配下においた。

既存の権威や勢力の否定、家柄門地によらない人材登用、
火縄銃の活用などを通して戦国時代を終結へと導いた。

しかし、中国地方に足を伸ばそうとしたとき、配下の明智光秀が謀反(本能寺の変)、自害した。