千利休(せんのりきゅう/せんりきゅう、大永2年(1522)~天正19年(1591年4月21日) 70才没)
和泉国堺の商家、「魚屋」に生まれる。
幼名は与四郎(與四郎)。法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。
広く知られた利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって正親町天皇から与えられた居士号である。
若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、武野紹鴎に師事し、
師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。
織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。
1587年、北野大茶会をし、一時は秀吉の重い信任を受けた。
1585年、宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。
秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、
碌も三千石を賜わるなど、茶人としての名声の絶頂にあった。
利休は突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ、
京都に呼び戻され聚楽屋敷内で切腹を命じられる。
利休の茶の湯は何も削るものがないところまで無駄を省いて、
緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)。
また、「露地」も利休の業績として忘れてはならない。
それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。
このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを
「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。
「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、
茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。