西田幾多郎

(にしだ きたろう、明治3年(1870年5月19日)~昭和20年(1945)6月7日 76才没)
石川県かほく市森(旧宇ノ気町森)に生まれる。日本を代表する哲学者。

1894年、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒業。
1895年、石川県能登尋常中学校七尾分校教諭、得田寿美と結婚(5月)。
最も著名な著書、『善の研究』は、旧制高等学校の生徒にとって必読書であった。

西田幾多郎が散策した琵琶湖疎水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。

1909年、学習院教授、日本大学講師に就任。
1910年、豊山大学(現・大正大学)講師、京都帝国大学文科大学助教授。
1911年、真宗大谷大学(現・大谷大学)講師。
1912年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)講師。
1913年、京都帝国大学文科大学教授、文学博士。
1914年、宗教学講座担当を免じ、哲学、哲学史第一講座担任を命じられる。

帝国学士院会員、京都帝国大学名誉教授、文化勲章受章。京都学派の創始者。

座禅修行によって培われた強靭な精神力が掘り起こす深みは、
文献学者に堕した「哲学学者」への痛烈なアンチテーゼ。

夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年(1867年2月9日)~大正5年(1916)12月9日 50才没)
江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。本名、金之助。
森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。俳号は愚陀仏。

漢学私塾二松学舎に入学する。
21歳の時、第一高等中学校英文科入学。
学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。
1889年、正岡子規と出会う。この頃に初めて漱石という号を使う。
「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、漱石はこれを譲り受けている。
1890年、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。
大学卒業後、高等師範学校に勤める。 その後、初期の肺結核と診断される。

1900年、文部省より英文学研究のため英国留学を命ぜられる。
メレディスやディケンズをよく読み、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家の
ウィリアム・クレイグの個人教授を受けたり、『文学論』の研究にいそしんだりする。

1903年、帰国後は一高、東京帝国大学講師。
1905年、「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表、連載を始める。
これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』を書く。
1907年、朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
『虞美人草』『三四郎』を掲載。
「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。

夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字、造語等言葉遊びの多用が見られる。
「新陳代謝」、「反射」、「無意識」、「価値」、「電力」、「肩が凝る」等は夏目漱石の造語である。