碌々斎

十一代 瑞翁宗左 碌々斎(ろくろくさい、1837年(天保8)~1910年(明治43))
本名は与太郎(幼名)、宗員のち宗左、宗旦

表千家11世家元 瑞翁宗左

10世祥翁宗左の長男として生まれる。
1855年に父の隠居に伴い家元襲名。
1868年の明治維新まで紀州徳川家に出仕したが、幕府崩壊に伴い終焉となり、
また幕末~明治初期は茶の湯衰退期となる。
碌々斎はそうした困難な時代背景の中で神社仏閣などでの茶事を多くこなして茶の湯復興に努め、
1886年には北野大茶の湯三百年記念茶会、87年に明治天皇に献茶、
90年に利休三百回忌を担当、伝統を守っている。

良寛

良寛(りょうかん、宝暦8年(1758年11月2日)~天保2年(1831年2月18日) 74才没)
越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた。

名主見習いだった良寛は18歳のとき出家。
玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に師事し、諸国を廻る。
義提尼より和歌の影響を受ける。

良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。
また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わした。

生涯寺を持たず、諸民に信頼され、教化に努めた。良寛自身、難しい説法を行わず、
自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉によって一般庶民に解り易く仏法を説き、
一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得る。

新潟県三島郡に良寛記念館がある。

頼山陽

頼山陽(らい さんよう、1780年(安永9)~1832年(天保3))
大坂出身。

大坂の江戸堀にて私塾を開いていた頼春水の子として生まれる。
1871年1歳の頃に、父が広島の藩儒に登用された為に広島竹原に移住。
1797年に江戸に遊学して、尾藤二洲に師事して儒学・詩文を学んだが青年期は素行が悪く、
1800年に広島藩を脱藩、京都などを巡遊したがすぐに藩に連れ戻されて幽閉となる。
その間、著述に没頭。
出獄後は福山藩の儒官菅茶山の廉塾の門下となりその後塾長も務める。
1811年には再び京都にて自由な学問を求めて私塾を開校。

詩文、書、絵画に優れ著書においても多数残しているが、代表的なものに「日本外史」「日本政記」
「日本楽府」、詩文集に「山陽詩鈔」「山陽遺稿」などがある。
また、文人・画家・詩人と数多く交友を持ち著名な人物では画家の田能村竹田、浦上玉堂、
江馬細香、儒者の梁川星巌、大塩平八郎らがいる。

印章は、自ら刻した。書斎は常に行届いており、骨董と書物を愛したと言われている。

印名は「頼子成」「頼襄」「迂襄」「臣襄」「山紫水明」「身留一剣答君恩」「古之人古之人」など多数ある。