田山方南(たやま ほうなん、1903年(明治36)~1980年(昭和55))
三重県出身、東京帝国大学卒。本名は信郎
帝国大学卒業後、1929年に文部省に入る。
中国、日本の古書墨蹟研究に尽力、国宝、文化財認定、保存、鑑定に長年就いて功績を残し、
書のほか中国明時代や日本の古陶磁にも造詣を深めて作陶も手掛けた。
代表著書に「禅林墨蹟」の編集を残す。
印名は「方南」 「灯庵」 「田山信」 「田山信郎」 釘彫にて「方南」など
田山方南(たやま ほうなん、1903年(明治36)~1980年(昭和55))
三重県出身、東京帝国大学卒。本名は信郎
帝国大学卒業後、1929年に文部省に入る。
中国、日本の古書墨蹟研究に尽力、国宝、文化財認定、保存、鑑定に長年就いて功績を残し、
書のほか中国明時代や日本の古陶磁にも造詣を深めて作陶も手掛けた。
代表著書に「禅林墨蹟」の編集を残す。
印名は「方南」 「灯庵」 「田山信」 「田山信郎」 釘彫にて「方南」など
高橋 泥舟(たかはし でいしゅう、天保6年(1835年3月15日)~明治36年(1903)2月13日 69才没)
江戸、旗本山岡正業の次男として生まれる。幼名を謙三郎。後に精一郎。通称 精一。
諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号である。日本の武士・幕臣。
生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山に就いて槍を修行、
海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。
1856年、講武所槍術教授方出役。 1860年、槍術師範役。
1863年、一橋慶喜に随行して上京 従五位下伊勢守を叙任。
1865年、新設の遊撃隊頭取 槍術教授頭取を兼任。
1868年、幕府が鳥羽伏見の戦い敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説く。
江戸城から上野東叡山に退去する慶喜を護衛。江戸城開城。水戸へ下る慶喜を護衛。
勝海舟、山岡鉄舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれている。
種田 山頭火(たねだ さんとうか、明治15年(1882年12月3日)~昭和15年(1940)10月11日 58才没)
山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。
1911年、荻原井泉水の主宰する俳句雑誌『層雲』に寄稿。
1913年、井泉水の門下となる。 生活苦から自殺未遂をおこしたところを
市内の報恩禅寺住職 望月義庵に助けられ寺男となる。
1916年には、『層雲』の選者に参加。
1924年、得度し「耕畝」と名乗る。翌年、寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。
1932年、郷里山口の小郡町に「其中庵」を結庵。
1939年、松山市に移住し「一草庵」を結庵。
自由律俳句の代表として、同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称される。
しかし、その作風は対照的で、「静」の放哉に対し山頭火の句は「動」である。
代表句
鴉啼いてわたしも一人
鈴をふりふりお四国の土になるべく
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
まつすぐな道でさみしい
また見ることもない山が遠ざかる
分け入つても分け入つても青い山
沢庵宗彭(たくあん そうほう、1573年(天正元)~1645年(正保2))
但馬国(兵庫県)。本名は綱紀(俗名)、春翁、秀喜、宗彭
俗姓は秋庭で、但馬国出石の秋庭能登守綱典の次男として生まれた。
父が仕えていた出石城主山名祐豊が、羽柴秀吉により攻められて落城。
父が浪人となったことから、地元の唱念寺にて出家。
その後、宗鏡寺に移り、希先西堂師に師事するが、希先が没すると変わりに
同寺住持として招かれた大徳寺の董甫紹仲に師事。
1594年、董甫が大徳寺138世住持に出世すると連れて上京。
董甫の師でもある春屋宗園にも師事。このときに法名を宗彭と改名。
その後、堺の南宗寺に入り一凍紹滴の下で修行、沢庵の法号を得る。
1607年に大徳寺首座となるがすぐに南宋寺に戻り、また09年に154世住持にも出世したが、
この時も3日で辞して、堺南宋寺に戻るなど名利を求めない人であったとされる。
また、この頃、幕府は大徳寺と妙心寺に対して寺院法度を厳しくする政令を発足し
これまで歴代の住持に天皇から勅許されていた紫衣を剥奪、
これは寺院と朝廷の関係弱化を狙った政策であったが、沢庵をはじめ玉室、江月らが幕府に抗議し
沢庵は出羽国山上に流罪となる。
その後、将軍徳川秀忠が没したことにより、大赦令がだされたのち一時江戸に上がり
神田広徳寺に身を預けたのち大徳寺に戻る。
将軍家光が上洛した際には謁見し、この頃より家光がよく帰依するようになり、
その後、家光の懇願を受けて、江戸に移りしばしば江戸城内にて説禅を行なう。
家光が品川に萬松山東海寺を創建した際にその開山として招かれている。
印名は「宗彭」 「明暗雙々」 「泉鼓」 「澤」 「澤庵」 など
(とよとみ ひでよし、天文6年(1537)~慶長3年(1598) 63才没)
尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に百姓の子として生まれる。
関白太政大臣に任ぜられ、豊臣姓を賜り、全国の大名を従え天下統一を成した。
百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」。
1554年、織田信長につかえる。
1564年、浅野又右衛門長勝養女(実父杉原定利)ねねと結婚。
1565年、信長の朱印状の副状に、木下藤吉廊秀吉と署名。
1566年、墨俣に築城し、斉藤竜興(たつおき)の兵を破る。
1569年、京都奉行の任につく。但馬、播磨の出兵に参戦。
1570年、信長、家康とともに浅井・朝倉を近江姉川に破る。横山城を守備。
1573年、この頃羽柴と改姓。信長に従い小谷城を攻め、浅井父子を攻め滅ばす。のち浅井氏の旧領江北三郡をもらう。
1574年、今浜に築城して長浜と改める。筑前守を名乗る。
1575年、信長、家康とともに武田勝頼を三河長篠に破る。
1577年、京より西下、上月城を陥れ城主以下を滅ぼし、山中鹿之介幸盛を配置する。
1580年、別所長治を三本木城に攻め、陥れる。
1581年、吉川経家を鳥取城に囲み、経家自刃し鳥取城を落とす。
1582年、本能寺の変。毛利氏と講和し高松城主清水宗治自刃する。山城山崎に明智光秀を破る。
織田家の宿老、尾張清洲城に集まり、信長の後継を三法師(信秀)と定める。
1583年、賤ケ嶽に柴田勝家の将佐久間盛政を破り、越前北の荘城に柴田勝家を攻め滅ぼす。
大坂城の普請始まる。
1584年、小牧・長久手の戦い。徳川家康、織田信雄の連合軍と戦い破れる。
1585年、四国の長宗我部元親を降伏させ、四国を平定する。
従1位関白に叙任し、姓を藤原と改め、関白拝賀を行う。
1586年、妹(旭姫)を徳川家康の正室にする。家康、大坂城にて秀吉に謁見する。
1587年、兵2万6000をひきい、九州島津氏を征伐するため大坂を出陣。
1589年、側室淀殿、淀城にて鶴松を生み、大坂城に移る。
1590年、小田原城に北条氏を攻める。北条氏直、織田信雄の陣に投降し北条氏滅ぶ。
1591年、羽柴秀長(秀吉弟)、子鶴松没。養子羽柴秀次、関白左大臣に任ぜられる。
秀次太閤と称す。
1592年、諸大名に朝鮮出兵を命ずる。大政所(母なか)没す。
1593年、側室淀殿、大坂城に捨丸(のちの秀頼)を生む。
1595年、秀次の左大臣、関白の官職を奪い、福島正則等を高野山におくり、秀次に切腹を命ずる。
家康以下諸大名30名の連署血判をとり、捨丸に忠誠を誓わす。
1598年、秀頼とともに醍醐寺三宝院に観桜の宴を開く。
徳川家康、前田利家等5大老に秀頼を託す。
石田三成等5奉行と誓書を交換。後を託す。伏見城に没す。秀頼後を継ぐ。
1599年、朝廷より豊国大明神の神号を与えられ豊国廟に祭られる。
立花大亀(たちばな だいき、1899年(明治32)~2005年(平成17))
大阪府出身
堺市の大徳寺派南宗寺で得度し、妙心寺専門道場で修行。
大徳寺別院徳禅寺住職を経て、1953年に大徳寺派宗務総長に就任する。
管長代務や顧問などを歴任した。
茶道の造詣も深く、茶掛、茶杓などの作品も制作、茶陶の指導を行った陶芸家の中には
信楽焼の人気作家、杉本貞光氏がおり、彼の作品によく箱書きなどを遺した。
印名は「霊山主人」 「大亀雅」 「大亀宗雅」 「如意盦」(「如意庵」) 「游樫昧」(「遊樫昧」)など
(だて まさむね、永禄10年(1567年9月5日)~寛永13年(1636年6月27日) 70才没)
出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
出羽米沢の米沢城に生まれる。1571年、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。
1572年、臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。
1575年、神職の子である片倉景綱が守り役を命ぜられ側近となる。
1584年、18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。
政宗は秀吉と鋭く対立した。
1593年、朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、
上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。「伊達者(だてもの)」という言葉ができた。
墓所は、仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)。1931年に国宝に指定された。
政宗は、派手で知られたため、後に独眼竜と呼ばれる。
(とくがわ いえやす、天文11年(1543年1月31日)~元和2年(1616年6月1日) 74才没)
三河国松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれる。日本の戦国武将・江戸幕府の初代征夷大将軍。
応仁の乱以降100年以上続いた戦乱に終止符を打ち、
織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を更に磐石のものとし、
264年間続いた江戸幕府を開府し、その礎を築いた。日光東照宮・久能山東照宮などで
「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)として祀られている。
戦国時代に三河国岡崎に岡崎城主松平広忠の子、幼名竹千代として生まれる。
当時の松平氏は弱小であり、広忠は仕えていた今川義元に息子を人質として差し出す事となった。
一時、家臣の裏切りにより織田氏の人質となるが、
最終的には当初の予定通り竹千代は今川氏に送られた。
竹千代は今川の元で人質として忍従の日々を過ごすが、
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後、
松平は今川より離れて織田信長の盟友(事実上は臣下)として版図を広げていく事となる。
やがて、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。
豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従った。
秀吉の元で、家康は最大の領地を得る事となり、豊臣政権の五大老筆頭に列せられる。
秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、
江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開く。
家康の生誕地は、三河岡崎だが、生涯を通じて、静岡県(駿府)を本城あるいは
生活の拠点としている期間が長く、尾張の織田信長のもとで人質として過ごすなど、
三河岡崎にいたのは、幼少期及び桶狭間後10年と、意外にも短い。
そのため、三河土着の松平(徳川)家歴代当主や三河譜代の家臣とは違う、広い見識を持っていた。
そのこともあり、晩年の家臣団には、本多正信、天海、大久保長安、茶屋四郎次郎など、
外交・内政・謀略に長けた異能の人物が集まった。
(たかの ちょうえい、文化元年(1804年6月12日)~嘉永3年(1850年12月3日) 47才没)
陸奥(後の陸前)仙台藩水沢留守家の藩医出身。
通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。江戸時代後期の医者・蘭学者である。
1820年、江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事。
師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。
その後、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、
抜きん出た学力から塾頭となっている。
1830年、江戸に戻り、町医者と蘭学塾を開業。
三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、田原藩のお雇い蘭学者として
小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たる。
1832年、天保の大飢饉の対策会として作られた学問サークルである尚歯会に入る。
崋山らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。
江戸幕府の異国船打払令を批判、開国を説くが、弾圧を受け、それを見ることなく亡くなった。
しかし開国が実現した後、1898年、その功績により正四位に序せられた。
岩手県に高野長英記念館がある。
残された著書に、夢物語、蛮社遭厄小記など。
竹田益州(たけだ えきしゅう、1896年(明治29)~1989(平成元))
大分県出身
11歳の頃に、滋賀県堅田の臨濟宗大徳寺派祥瑞寺大友宗忠について得度。
1915年に、建仁寺の竹田穎川に参じた後、その法嗣となり、竹田姓を名乗る。
また、1918年より祥瑞寺住職に就任。
その後、大徳寺山内塔頭の大仙院住職、大徳寺執事長などを歴任。
1945年建仁僧堂師家となり、54年4月に建仁寺住職、及び建仁寺派管長に就任。
茶道の造詣が深く、多数の自筆書や自作茶杓を残し茶陶器の箱書も多く残す。
印名は「益州」 「益州道人」 「宗進」 など