渡邉武夫

渡邉武夫(わたなべ たけお、1916-2003)
東京生まれ。寺内萬治郎に師事。

1932年、第一美術協会展に初入選。
1938年、光風会展にてF氏賞受賞。
1939年、光風会展にて船岡賞受賞。東京美術学校卒業。
その後、光風会展にて光風賞受賞、光風特賞受賞、光風会会員(44年)。
1941年、新文展にて特選。
1954年、第1回現代日本美術展(主催:毎日新聞社)に出品。
1955年、渡欧。
1961年、日展会員。
1966年、日展評議員。
1972年、埼玉文化賞を受賞。
1974年、日展にて内閣総理大臣賞受賞。
1976年、光風会理事。
1985年、日展理事
日本芸術院賞、紺綬褒章受章
1987年、勲四等旭日小綬章受章。
1988年、日本芸術院会員。
1989年、日展常務理事。
1990年、光風会常任理事。
1991年、渡辺武夫個展(松屋銀座)。
1997年、光風会理事長。
1998年、勲三等瑞宝章受章。
2000年、光風会名誉会長。

1955年のヨーロッパ留学以降、その美しい景観に新たな活路を見出し精密な写生技法によりヨーロッパ各所の風景画を得意とした。
サインは「T.WatanabeT.S.」など。

渡邉武夫(わたなべ たけお、1916-2003)
東京生まれ。寺内萬治郎に師事。

1932年、第一美術協会展に初入選。
1938年、光風会展にてF氏賞受賞。
1939年、光風会展にて船岡賞受賞。東京美術学校卒業。
その後、光風会展にて光風賞受賞、光風特賞受賞、光風会会員(44年)。
1941年、新文展にて特選。
1954年、第1回現代日本美術展(主催:毎日新聞社)に出品。
1955年、渡欧。
1961年、日展会員。
1966年、日展評議員。
1972年、埼玉文化賞を受賞。
1974年、日展にて内閣総理大臣賞受賞。
1976年、光風会理事。
1985年、日展理事
日本芸術院賞、紺綬褒章受章
1987年、勲四等旭日小綬章受章。
1988年、日本芸術院会員。
1989年、日展常務理事。
1990年、光風会常任理事。
1991年、渡辺武夫個展(松屋銀座)。
1997年、光風会理事長。
1998年、勲三等瑞宝章受章。
2000年、光風会名誉会長。

1955年のヨーロッパ留学以降、その美しい景観に新たな活路を見出し精密な写生技法によりヨーロッパ各所の風景画を得意とした。
サインは「T.WatanabeT.S.」など。

脇田和

(わきた かず、明治41年(1908)6月7日~平成17年(2005)11月27日 97才没)
東京都港区青山に生まれる。

1925年、青山学院中等部中退後、ドイツに渡りベルリン国立美術学校に入学。
ミューラー・シェンフェルト塾で人体デッサンを学ぶ。
1930年、同校卒業時に美術学校より金メダルを受賞。

1932年、太平洋画会に入選し、翌年帝展に入選。
1936年、猪熊弦一郎、小磯良平ら8人の仲間とともに
新制作派協会(現在の新制作協会)結成に加わる。以後、同協会展に出品を重ねる。
1955年、日本国際美術展で最優秀賞。
1956年、グッケンハイム国際美術展国内賞を受賞。

東京藝術大学名誉教授、勲四等旭日小綬章、、文化功労者。

軽井沢に脇田美術館がある。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

和田三造

(わだ さんぞう、明治16年(1883)3月3日~昭和42年(1967)8月22日 84才没)
兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に生まれる。

1900年、黒田清輝邸の住み込み書生となり、師事する。
1901年、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科に入学。
1905年、白馬会展で『牧場の晩帰』が白馬会賞を受賞。
1907年、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞。
1909年、文部省美術留学生として渡欧する。
1917年、文展審査員。以後、文展や、帝展に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れる。
1920年、染色芸術研究所を設立。
1954年、映画「地獄門」でアカデミー衣装デザイン賞を受賞。

帝国美術院会員、日本芸術院会員、東京美術学校教授、日本色彩研究所理事長、文化功労者。

晩年は油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍する。

和田英作

(わだ えいさく、明治7年(1874)12月23日~昭和34年(1959)1月3日 84才没)
鹿児島県垂水市出身。

1892~1894年、原田直次郎、黒田清輝らに師事。
1899~1903年、文部省留学生として渡仏、ラファエル・コランに師事。
1902年、サロン入選。
1903年、帰国し、美術学校教授。
1932年、正木直彦が辞任した後、美術学校校長に就任。
1943年、文化勲章を受章。

帝国美術院会員、帝室技芸員。

慶應義塾大学図書館旧館のスティンドグラス(原画)でも知られる。

李禹煥

(リ・ウーファン、Lee U-Fan、昭和11年(1936)~)
大韓民国慶尚南道に生まれ。

1956年、ソウル大学校美術大学を中退後、来日。
1961年、日本大学文学部哲学科を卒業。
1969年、「事物から存在へ」が美術出版社・芸術評論募集に入賞。
1977年、第13回現代日本美術展 東京国立近代美術鑑賞受賞。
1979年、第11回東京国際版画ビエンナーレ京都国立近代美術館賞受賞。
1979年、第1回ヘンリー・ムーア大賞展優秀賞受賞。
1994年、日本文化デザイン賞受賞。
2002年、上海ビエンナーレ ユネスコ賞受賞。
2001年、世界文化賞 絵画部門賞受賞。
2006年、第47回毎日芸術賞受賞。

韓国文化省より文化勲章花冠、フランス文化省よりシュヴァリエ芸術文化勲章。
紫綬褒章、多摩美術大学名誉教授。

個展および国際展への出品多数。代表作は「点より」「線より」シリーズ。

石、木、紙、綿、鉄板、パラフィンといった〈もの〉を単体で、あるいは組み合わせて
作品を制作する「もの派」の代表的作家の一人として確固な地位を確立。

サインは「L.ufan」など

山本芳翠

山本芳翠(やまもと ほうすい、1850年(嘉永3)~1906年(明治39))
岐阜県出身。東京工部美術学校卒

幼少期より画に興味を持ち、15歳で画家を志す。
京都にて久保田雪江に師事した。
その後、横浜にて五姓田芳柳に出会い、洋画の可能性を見出し、フアオンタネージに師事する。
1877年、東京工部美術学校にて学ぶ。
79年にはパリ万博事務局雇い、という名目にて渡欧、本格的な西洋画の画技を習得し、88年に帰国。
帰国後は画塾生巧社、明治美術会などを立ち上げ、後進の指導に尽力。
明治期を代表する洋画家の一人で、後世に多大な影響を与えた。

滞仏作を日本に持ち帰る際に、作品を積み込んだ船が難破しており、
氏の作品はほとんど残っていない。明治39年11月14日56歳で没。

サインは「YH」など

吉井淳二

(よしい じゅんじ、明治37年(1904)3月6日~平成16年(2004)11月23日 100才没)
鹿児島県曽於郡末吉町(現曽於市)出身。

1929年、東京美術大学洋画科卒業。
1940年、二科会会員就任。
1961年、二科会理事就任。
1976年、南日本美術展審査委員長就任。
1979年、日本芸術院会員就任。
1979年、社団法人二科会理事長就任。

作品のケレン味のない質実で情味ある画風は、みるものに安らぎと親近感を与え、
名実共にみごたえのあるもの。
残っている作品は少なく、中でも裸婦3点は貴重。

吉井淳二の作品は鹿児島県南さつま市にある「財団法人 吉井淳二美術館」にて見ることができる。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

山下清

(やました きよし、 大正11年(1922)3月10日~昭和46年(1971)7月12日 49才没)
東京府東京市浅草区田中町(現・東京都台東区日本堤)生まれ。本名は大橋清治。
3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。

1928年、浅草の「石浜小学校」に入学。
1934年、千葉県の養護施設「八幡学園」に入園。
この学園での生活で「ちぎり紙細工」に遭遇。
1939年1月、大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催。
清の作品は梅原龍三郎・安井曽太郎らから賞賛された。

1940年、突然放浪の旅を始める。
驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」「桜島」など行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。

戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」とよばれた。
1956年、東京大丸の「山下清展」をはじめ、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人をこえた。
1961年、ヨーロッパ旅行に出発。各地の名所を絵に残した。

長野県茅野市に放浪美術館がある。

山口長男

(やまぐち たけお、明治35年(1902)11月23日~昭和58年(1983)4月27日 80才没)
韓国、ソウルに生まれ、19歳まで同地で過ごす。日本の抽象絵画の先駆者である。

1921年、上京し、本郷洋画研究所へ通う。岡田三郎助に師事。
1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
1927年、同校卒業とともに渡仏。
ピカソ、ブラック、それに当時渡仏中だった佐伯祐三にも刺激を受ける。
また、彫刻家のオシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形をも習得に努めた。
1931年、帰国後、抽象画を描き二科展へ出品。
1938年、東郷青児、藤田嗣治を顧問に、吉原治良らと九室会を結成。
1954年、会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。
第一回現代日本美術展で優秀賞を受賞。
第3回サンパウロ・ビエンナーレ、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ、
グッゲンハイム賞美術展など国外でも出品。

芸術選奨文部大臣賞受賞、武蔵野美術学園長。

典型的な作品は、黒系の地に黄土色または赤茶色系の大きな色面を配したもので、
いわゆる「ハード・エッジ」の抽象絵画とは違った温かみを感じる。

萬鉄五郎

(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、明治18年(1885)11月17日~昭和2年(1927)5月1日 41才没)
岩手県和賀郡東和町(現・花巻市)の商家(回送問屋「八丁」)に生まれる。

1906年、渡米。
1907年、東京美術学校西洋画科(現・東京藝術大学)に入学。
1912年、東京美術学校の卒業制作として、《裸体美人》を提出。
この頃の作品は後期印象派やフォーヴィスムの影響が強い。
同年、 岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加。
1917年、二科展にキュビスム的作品「もたれて立つ人」を出品。

日本洋画界に、フォーヴィスムを導入した先駆者としての功績は大きい。
晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。

岩手県花巻市に萬鉄五郎記念美術館がある。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html