小山正太郎

小山正太郎 (こやましょうたろう、安政4年(1857) ~大正5年(1916) 59才没)
新潟県生まれ。

1871年、上京。幕末維新期に一早く西洋画法を学んでいた川上冬崖の画塾聴香読画館に入門。
1874年、陸軍士官学校の図画教授係になる。ここでフランス人御雇教師アベル・ゲリノーから図学と水彩画を学んだ。
1876年、工部美術学校開設とともに入学。イタリア人御雇教師アントニオ・フォンタネージに学ぶ。
1878年、十一会結成。
1900年、パリ万博の出品監査委員となる。

東京高等師範学校の図画科主任、文展審査委員。

小山敬三

(こやま けいぞう、明治30年(1897)8月11日~昭和62年(1987)2月7日 89才没)
長野県小諸市に生まれる。

1916年、川端画学校で藤島武二に師事。
1920年、島崎藤村のすすめで渡仏。 アカデミー・コラロッシでシャルル・ゲランに油絵を学ぶ。
1929年、神奈川県茅ヶ崎市にアトリエを構える。
1975年、村野藤吾設計による小諸市立小山敬三美術館が完成。

日本芸術院賞、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章を受章。
春陽会会員、サロン・ドートンヌ会員、二科会会員、日展理事。

鑑定人・鑑定機関

小山敬三美術振興財団
〒150-0032 東京都渋谷区鶯谷町15-13
Tel:03-3461-0172

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

小松崎邦雄

小松崎邦雄 (こまつざきくにお、昭和6年(1931) ~平成4年(1992) 61才没)
東京に生まれ。

1950年 東京芸術大学美術学部油画科に入学。安井會太郎のち林武の教室で学ぶ。
1954年、東京芸術大学美術学部油画科を卒業、安宅賞・大橋賞を受賞。
一水会第16回展(東京都美術館)に初入選、以後入選を重ねる。
1956年、東京芸術大学美術学部専攻科を修了、大橋賞を受賞。
1957年、一水会会員となる。
1987年、個展<舞妓の世界展>を日本橋・三越で開催。

昭和会賞、東郷青児美術館大賞、浦和市文化栄誉賞、宮本三郎記念賞。

児玉幸雄

(こだまゆきお、大正5年(1916)~平成4年(1992) 75才没)
大阪市に生まれる。

1936年、田村孝之介に師事する。
1937年、二科展に「赤い背景の人形」初入選。
1939年、大学卒業後入隊。
1947年、大阪市展に出品、市長賞受賞。二紀会創立展に参加、同人となる
1950年、第4回二紀展にて同人賞受賞。
1957年、渡仏。 1959年、滞欧作品展を東京・大阪で開催。
1964年、渡欧。アメリカ、メキシコに渡る。
1980年、文化庁「パリーの広場」作品買上。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
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児島虎次郎

児島虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14)~1929年(昭和4))
岡山県出身。東京美術学校西洋画科卒

実家は旅館の仕出しなどを営んでいたが、絵画の道を志して上京。
倉敷の実業家大原家の奨学生となって東京美術学校に入学。
卒業後は、1908年にヨーロッパ留学、09年にはベルギーのゲント美術学校に学ぶ。
12年に同校を主席で卒業するほどの才を見せ、同年帰国。

その後は、絵画制作の傍ら中国・朝鮮を旅行。
また、大原家の依頼により西洋絵画の買い付けの為度々欧州に渡って、
モネ、ゴーギャン、ロダンなど大家級の作品を集め、後の大原美術館の基礎を担った。
24年に明治神宮奉賛会より依頼を受けて、明治天皇を讃える壁画の制作に従事していた。
製作途中の29年に病没(享年47)

小林和作

(こばやし わさく、明治21年(1888)8月14日~昭和49年(1974)11月4日 86才没)
山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)生まれ。

1920年、鹿子木孟郎の画塾に通う。
翌年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。

1924年、第2回春陽会に「夏の果実」を出品し初入選。 1927年、春陽会会員となる。

作品は主に風景画。
地方美術界に於いて指導的役割を果たし、物心両面から援助した。

中国文化賞、芸術選奨文部大臣賞、勲三等旭日中綬章。
尾道市名誉市民、秋穂町名誉町民。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713

五姓田義松

五姓田義松 (ごせだよしまつ、安政2年(1855)~大正4年(1915) 60才没)
五姓田芳柳の次男、江戸生まれ。

1867年、ワーグマンに師事。幼少より神童、天才とうたわれる。
1872年、17歳で独立して画塾を開く。その後、父と川上冬崖の推薦により
陸軍士官学校の画学教師になる。
1876年、工部美術学校が設立され入学。
1877年、第1回内国勧業博覧会に出品、洋画部門グランプリの鳳紋賞を受賞。
明治天皇の肖像画のほか、御付画家として天皇の北陸・東海巡幸に同行する。
1880年、フランスへ渡る。レオン・ボナ(歴史画の大家)に師事。
1882年、日本人として初めて、フランスのサロンで入選。
1889年、帰国。明治美術会の創立に参加する。

美術王国フランスでの日本人初のサロン入選という偉業。
高橋由一と五姓田義松が、1880年までに獲得した写実と構図は、
すでに西洋油彩画に肩を並べるほどのものであったといわれている。

作品は「御物」として皇居に献上され、明治の宮廷画家ともいわれる。

五姓田芳柳

五姓田芳柳(ごせだ ほうりゅう、初代、1827年(文政10)~1892年(明治25))
江戸出身。本名は浅田。

歌川国芳に浮世絵の技術を学び、また狩野派の画技を修得する。
しかし、1858年頃から、独自に西洋画の技術を取り入れた「横浜絵」と称される画風を展開。
始めは、外国人にみやげ物として評判になる。
その後、地方の藩士や名士などからも声がかかり肖像画などを描き、自身の名を上げる事に成功。
1873年には、明治天皇の肖像画を手掛けるまでに至る。
当時の肖像画家のトップにまで上り詰めた。

芳柳の描く画は、日本画と西洋画の融合とも言え、一見日本画風に見えるが、
当時は、油彩の画材が手に入りにくく、いかに西洋画に近づけるかという葛藤の末、
生まれた画風であり、独自の緻密写生画が特徴。

小絲源太郎

(こいと げんたろう、明治20年(1887)7月13日~昭和53年(1978)2月6日 90才没)
東京府東京市下谷区(現東京都台東区)の老舗料理屋「揚出し」で生まれる。本名小糸源太郎。

東京美術学校(現東京芸術大学)金工科在学中の43年に第4回文展初入選。
金工科を卒業後、西洋画科に入学。以来帝展・日展と出品した。
昭和初頭頃の作品は、中国院体画風の細密描写による静物画を主としていた。
写実的で穏健な画風だったが、明快で強い画風に変えてから、評価されるようになった。

日本芸術院賞受賞、日本芸術院会員、文化勲章受章。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713

小出楢重

(こいで ならしげ、明治20年(1887)10月13日~昭和6年(1931)2月13日 45才没)
大阪市南区長堀橋筋一丁目生まれ。

渡辺祥益に日本画の手ほどきを受ける。
1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を受験したものの不合格、
日本画科への編入を許されて入学する。下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。

1919年、「Nの家族」が二科展で樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞。
翌年も二科展に出品し、入選作「少女お梅の像」が二科賞を受賞。
同会の会友に推挙された。以後、二科展に出品をつづけ、1923年に会員となった。
1924年、大阪で信濃橋洋画研究所を設立。

「裸体画の楢重」と言われ、日本の女性の肌合いやプロポーションをあますところなく表現して評価された。
「東の劉生、西の楢重」と呼ばれ、岸田劉生と並んで近代画家に大きな足跡を残した。

鑑定人・鑑定機関

小出楢重の会
Nii Fine Arts
〒541-0054 大阪市中央区南本町2-4-3 丸全ビル203号室
Tel: (06) 4708-7839
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