猪熊弦一郎

猪熊弦一郎(いのくまげんいちろう、明治35年(1902)12月14日~平成5年(1993)5月17日 90才没)
高松市に生まれ、丸亀市に転居。

東京美術学校(現東京芸術大学)洋画科に入学し、藤島武二に師事する。
1926年「婦人像」で帝展初入選を果たす。その後、「座像」で特選に選ばれるなどし、帝展無鑑査となる。
1936年 帝展改組をきっかけに小磯良平、脇田和らと新制作派協会を設立する。

戦後、上野駅に壁画「自由」を完成。慶應義塾大学大学ホールの壁画「デモクラシー」、
名古屋丸栄ホテルホール壁画「愛の誕生」で第2回毎日美術賞を受賞。
白地に赤で有名な三越の包装紙「華ひらく」のデザインも行ない、
当時としては破格の報酬でも話題となった。

1955年から活動の拠点をニューヨークに移す。

勲三等瑞宝章を受章、第34回毎日美術賞を受賞。

故郷には丸亀市猪熊弦一郎現代美術館がある。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

糸園和三郎

糸園和三郎 (いとぞのわさぶろう、明治44年(1911)~平成13年(2001) 90才没)
中津市の呉服商の三男として生まれる。

父の勧めで16歳で上京し、川端画学校に入学。その後、前田写実研究所に入所し、前田寛治に師事。

戦中・戦後は疎開のために郷里中津ですごし、
創作活動の傍ら子どもたちに絵を教えたり、美術クラブ「アヒル会」や中津文化連盟で
絵の指導をしています。
1957年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品、同年の第4回日本国際美術展で佳作賞受賞、
1968年には第8回現代日本美術展でK氏賞を受賞するなど評価は確固たるものとなってゆきます。

シュルレアリスムに影響を受けた独特の作風は難しくとらえられがちですが、
自分の内面と対話し描きあげられた世界は多くの人々を魅了しています。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構鑑定委員会
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

石井柏亭

石井 柏亭(いしい はくてい、明治15年(1882)3月28日~昭和33年(1958)12月29日 76才没)
東京生まれ。本名石井満吉。父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。

浅井忠に入門し、太平洋画会に参加する。
1904年東京美術学校に入学するが、眼病のため中退。
1908年木下杢太郎、北原白秋ら文学者とパンの会を結成した。
1914年には有島生馬らとともに二科会を結成した。

穏和な写実的作風の画家である。

東京帝国大学工学部講師。西村伊作が創立した文化学院に招かれて教壇に立つ。

フランス政府より、レジオン・ドヌール勲章受章。
『中央美術』を創刊、帝国美術院会員となり二科会を辞す。一水会を結成。
帝国芸術院会員、日展運営会理事、没後正四位勲二等旭日重光章受章。

伊藤清永

伊藤 清永(いとう きよなが、明治44年(1911)~平成13年(2001)6月5日 90才没)
兵庫県出石郡出石町下谷(現在の豊岡市)生まれ。

岡田三郎助に師事。
東京美術学校在学中の1933年第14回帝展に初出品、初入選。
1936年文展(文部省美術展)で選奨を受賞、白日会会員となり画家としての道を確立。

70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、
温かみのある独自の画風が特徴です。

勲四等旭日小綬章受章、日本芸術院会員就任、日展顧問、兵庫県文化賞。
文化功労者、文化勲章受章。

兵庫県には伊藤清永美術館がある。

池田満寿夫

池田 満寿夫(いけだ ますお、昭和9年(1934)2月23日 ~ 平成9年(1997)3月8日 63才没)
旧満州生まれ。戦後長野県で育つ。

19歳で自由美術家協会展に入選。
瑛九の勧めで色彩銅版画の作製に取り組む。
真珠社から豆本のシリーズを刊行。

上野・不忍画廊で初の個展を開く。
1965年には、ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開き、話題となる。
版画家としては最高権威のヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受賞。

芸術選奨文部大臣賞受賞。リュブリアナ国際版画展ユーゴスラビア科学芸術アカデミー賞受賞、
米国議会図書館主催版画展買上賞受賞、「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞、
フジサンケイ・ビエンナーレ現代国際彫刻展優秀賞受賞。

版画の技法は、木版、銅版、シルクスクリーン、リトグラフなどが現存する。
その中で、ドライポイントによる銅版画の評価が高い。
多彩に活躍した芸術家で、官能的な作風が多く、現在でも高い評価を得る。

長野市に池田満寿夫美術館がある。

亜欧堂田善

亜欧堂田善(永田善吉) (あんどう でんぜん、1748年(寛延元)~1882年(文政5))
磐木国(福島県出身)、本名は永田善吉、号は亜欧堂。

はじめ、谷文晁に日本画の画技を学び、後に洋画、特に当時としては大変珍しかった
銅版の制作を独自に習得して制作。
1798(寛政8)年には白川(福島県白河市)に移住し、城主松平定信の御用絵師として活躍。
既存の日本画を洋画風にアレンジ、また外国銅版画家の模索や研究にも努力し、
江戸風景などを写実的に描写する。
司馬江漢とは双璧をなす江戸時代の洋画家で後世の日本洋画文化に多大な影響を与えた。

印名は「田善」 「田善之印」 「竹應」 「亜欧堂」 「なかたせんきち」 「みちのくすかかは」 など

麻生三郎

麻生三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2)~(現在))
東京都出身。太平洋美術学校中退。

少年期の頃から、ダ・ヴィンチやデューラーなど、西洋名画を模写する。
1928年には、小林萬吾主宰の洋画塾同舟舎研究所にて学ぶ。
その後、太平洋美術学校に進学(中退)、同校の寺田政明や松本俊介らと親交を深める。
以降、度々グループ展などを開催。
1938年には、初渡欧してパリを拠点にベルギー、イタリアなどにも取材、また、
渡欧中はルーブル美術館にて作品模写に没頭。
その後、戦況不安定により帰国となり、39年には独立展に出品。
同年、美術文化協会展の結成に参加して、翌年の第一会展で滞欧作を特別出品。
43年、新人画会結成に参加。

戦後は、47年に自由美術家協会、日本国際美術展に参加。
現代日本美術展などにも出品を重ねたが、64年に自由美術家協会を脱会。
無所属作家として個展中心に作品を発表。
また、1952年より81年の間、武蔵野美術学校にて後進の指導にも尽力を示す。

サインは「ASO」など

有島生馬

(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年(明治15年)
11月26日 – 1974年(昭和49年)9月15日)は、神奈川県横浜市出身の画家。

東京外語伊太利語科卒業後、藤島武二の門に入り、
明治38年渡欧し、イタリア、フランスで絵画や彫刻を学びます。

帰国直後の明治43年、志賀直哉や児島喜久雄らと
「白樺」創刊に同人として加わり、新体詩や小説を発表し、
またセザンヌを初めて日本に紹介しました。

明治26年から28年にかけて
鎌倉の由比ガ浜の父の別荘に住み、
大正9年稲村ガ崎に邸宅をもとめ、
昭和32年から没年まで過ごしました。
材木座霊園に墓所があります。
また稲村ガ崎の家は、長野県の信州新町に移築され、
美術館併設の有島生馬記念館となっています。

有元利夫

有元利夫(ありもととしお、1946年9月23日 – 1985年2月24日)は、
日本の洋画家。岡山県津山市に生まれる。

1969年東京藝術大学美術学部デザイン科に入学。
後に夫人となる日本画科の渡辺容子と知り合う。在学中の1972年に結婚。

イタリアのフレスコ画に強く感銘を受けフレスコ画と日本の仏画に共通点を見出し、
岩絵具を用いることを決心する。
1972年卒業制作「私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ」10点連作が大学買い上げとなる。

1978年「花降る日」で第21回安井賞特別賞、
1981年「室内楽」で第24回安井賞を受賞。
1985年肝臓がんで死去。
豊かな才能で将来を期待されながら38歳という若さでこの世を去った

足立源一郎

足立源一郎(あだち げんいちろう、1889年(明治22)~1973年(昭和48))
大阪府出身。京都市立絵画工芸専門学校卒

浅井忠・鹿子木孟郎・グラン・ショミエールに師事。
二度にわたり約七年間の渡欧の後、帰国。
その後、日本芸術院同人に推挙され、木村荘八や岸田劉生らと春風会を結成。
また、生涯山岳に魅了され、石井鶴三らと日本山岳画協会を創立する。
日本芸術院会員。
享年54歳。

サインは「g.adatzi」など