浅井 忠(あさい ちゅう、安政3年6月21日(1856年7月22日) – 明治40年(1907年)12月16日)は、
明治期の洋画家。
日本近代洋画の先駆者として極めて大きな功績を残した浅井忠は、
佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の江戸屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。
浅井は、幼い頃から絵に興味を持ち、
「九歳の頃より藩の画家黒沼槐山と云へる人に就き、花鳥等を描くことを学べり」
(『木魚遺響』)と言われています。
後にイタリア人画家アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi)から
本格的に西洋美術を学びました。
1889年には浅井が中心になって明治美術会を設立し、
1898年(明治31年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。
その後、1900年(明治33年)からフランスへ西洋画のために留学した。
浅井忠は、フランス留学前の東京(私塾の根岸倶楽部や東京美術学校など)と
帰国後の京都(京都高等工芸学校や聖護院洋画研究所、関西美術院など)で、
数多くの若き画家たちを育て、教育者としても大きな功績を残しました。
彼らの作品を見ると、浅井忠の及ぼした影響をうかがい知ることができます。