中山忠彦

中山 忠彦(なかやま ただひこ、昭和10年(1935) ~)
福岡県小倉市(現・北九州市)生まれ。

1944年、9歳で大分県に疎開。
1950年、15歳で県展に入選。高校卒業後上京、伊藤清永に師事する。
1954年、日展に「窓辺」が初入選。
1958年、白日展に「群像」を出品し、会員に推挙される。
1965年、30歳で若林良江と結婚。

良江夫人と結婚してからは、妻をモデルに現在につながるテーマを確立する。
着衣の女性像を描き続けています。

1980年、白日展で「妝う」が内閣総理大臣賞。
1996年、日展で「華粧」が内閣総理大臣賞を受賞。
1998年、「黒扇」で日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員に推挙される。

現在は白日会会長、市川市文化振興財団理事長として、後進の指導にもあたる。

中村研一

中村研一(なかむら けんいち、1895年(明治28)~1967年(昭和42))
福岡県出身。東京美術学校西洋画科卒

県立中学校在学中に、同じ中学の上級生でもあった、児島善三郎が中心として活動していた
絵画クラブに入会したのが、画家を目指すきっかけとなる。
卒業後は、1914年に京都に出て、鹿子木孟郎の内弟子となる。
その翌年には上京して、東京美術学校の西洋画科にて学ぶ。
東美在学中の19年第8回光風会展にて。初入選。翌年には、第2回帝展においても克入選。
21年第3回帝展や、28年第9回帝展、29年第10回帝展で特選を受賞。

23年~28年まで、フランスに留学。
その際、サロンドートンヌなどで出品を重ね、27年には同会員に推挙されている。
さらに29年には光風会会員に就任、31年は前年の第11回帝展出品作「弟妹集う」にて
帝国美術院賞を受賞、しかし、戦時中は軍からの依属を受け、従軍画家としてシンガポールなどに
赴いて自由な表現ができなかった。そうした次代背景の中で、
42年には第5回新文展出品作「安南を憶う」にて野間美術奨励賞、
同年第1回大東亜戦争美術展出品作「コタ・バル(上陸作戦)」にて朝日文化賞を受賞。
戦後は50年に日本芸術院会員に就任するなど、洋画壇を代表する画家として
日展、光風会展を中心に制作を続けた。

大胆な太い線を主軸とした筆致と、精密なモチーフの描写、また光の明暗による構図構成により
写実的な油絵を確立。
初期の頃は、風景画などを残しているが、その後戦争画を経て、
戦後はおもに女性像の作品を多く残した。

サインは「k,nakamura」・釘彫または色絵にて「K」

野口弥太郎

野口弥太郎(のぐち やたろう、1899年(明治32)~1976年(昭和51))
東京都出身。川端画学校卒

川端画学校にて藤島武二に師事。以降は独学にて画技を習得。
1922年、二科展にて初入選、萬鉄五郎らから高い評価を受け。注目を集めた。
29年に渡欧し、フランス画壇サロン・ドートンヌに出品する。
帰国後は、独立協会会員に迎えられ、同会を中心に美術団体連合展・日本アンデパンダン展等に出品。

戦後は、度々渡欧しながらも、1961年に海老原 喜之助・鳥海 青児らと国際形象展を創立。
72年に芸術選奨文部大臣賞に選出、75年に日本芸術院会員に就任した。

画風は渡欧により、ヨーロッパのフォービズム(野生派)的な画風を確立しており、
ヨーロッパや日本の長崎を中心とした、日常的な風景画や各地の祭りを題材に
大胆な構図と軽快な筆致、独自の色彩感覚により自由奔放な表現が大きな特徴となる。

サインは「Y.Noguchi」「yataronoguchi」など

楢原健三

楢原 健三(ならはら けんぞう、1907年6月30日 – 1999年8月14日)
東京都生まれ。

1930年、東京美術学校在学中に「数寄屋橋風景」で帝展に初入選。
1933年、東京美術学校卒業。藤島武二に師事。
1947年、日展で岡田三郎助賞受賞。
1964年、日展評議員となる。
1971年、改組日展で文部大臣賞受賞。
1981年、日本芸術院賞受賞
1988年、日本芸術院会員。
1993年、勲三等瑞宝章受章。

中根寛

(なかね ひろし、大正14年(1925)~)
愛知県岡崎市郊外の額田町生まれ。

東京芸大油彩科卒。在学中には安井曾太郎、小磯良平、山口薫らの指導を受ける。
最優秀卒業生に与えられる大橋賞を受賞。
1969年、渡欧。
1985年、岡崎市より三州岡崎葵市民として顕彰される。

東京芸大教授、美術学部長を経て現在は名誉教授。無所属。
版画を彷彿とさせる写実性の高さで風景画家として新しい領域を開拓している。

紺綬褒章受章、勲三等瑞宝章受勲。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

中西利雄

中西利雄(なかにし としお、1900年(明治33)~1948年(昭和23))
東京都出身。東京美術学校卒

東美在学中の1924年に帝展初入賞。
卒業後は、28年に約2年半にわたり、フランスに留学。
その間、サロン・ドートンヌに出品・入選する。
32年には、その滞仏作を日本水彩展に特別出品、また34年の帝展では特選受賞となる。
36年には、小磯良平、猪熊弦一郎、脇田和など、後の大家とされる画家達と
新制作派協会(新制作協会の前身)を創立。
同会を中心に出品・会発展に尽力など活躍していたが、48年に肝臓癌で没する。

水彩画の風景画・肖像画の描写力、表現力に定評があり、
近代的・都会的な作風として評されている。氏没後、50年が経った現在においても
色褪せず新鮮さを感じられる。

サインは「T.nakanishi」など

中川一政

中川一政(なかがわかずまさ、明治26年(1893)2月14日~平成3年(1991)2月5日 97才没)
東京本郷生まれ。

1914年、巽画会展に出品した「酒倉」が岸田劉生に見出されて画家を志す。
1920年、初の個展(油彩)を開く。
1922年、二科賞受賞後、小杉放庵らと「春陽会」設立に参加。
1931年 水墨画の個展を開く。
1949年 神奈川県真鶴町にアトリエを構える。

文化勲章を受章。

油彩だけではなく、岩彩(日本画)書・篆刻・陶芸・装丁など
その創作活動は自由奔放で多方面に渡っている。また随筆家としても知られる。

母の故郷である石川県松任市(現 白山市)に松任中川一政記念美術館
神奈川県足柄下郡に真鶴町立 中川一政美術舘がある。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

寺内萬治郎

寺内 萬治郎(寺内 万治郎、てらうち まんじろう、明治23年(1890)~昭和39年(1964) 74才没)
大阪生まれ。

1916年、東京美術学校西洋画科卒業。黒田清輝に師事する。
1922年、金塔社結成。
1929年、光風会会員。
1943年、東京芸術大学講師。
1960年、日本芸術院会員。

日本人の裸婦をモチーフとしています。
その裸婦像は、必ずしも均整のとれた裸婦ではありません。
よく言えば存在感のある、悪く言えばずんぐりとした裸婦です。
しかしこの裸婦像の中には、寺内の万感の思いが込められています。

智内兄助

智内兄助(ちない きょうすけ、昭和23年(1948)~)
愛媛県今治市(旧越智郡波方町)出身。6人兄弟の末子。

1971年、「シェル美術賞展」佳作賞。「日仏現代美術展」フィガロ1席、2席、特別賞。
東京芸術大学大学院油画科修了。

1980年代前半より、長女・久美子氏をモデルに艶やかな着物姿の童女を描いた一連の作品で評価を得る。
日本画古来の素材である和紙や絹を洋画材のアクリル絵具を結び付けた独特な画法で、
日本画と洋画との境界を越えた革新的な絵画表現を創り上げる。

1992年、新聞連載された宮尾登美子の小説『蔵』の挿絵が人気を博した。
2002年、2004年ギャルリーためながパリ店にて個展開催、ヨーロッパのコレクターを魅了、
特に大コレクターであるロスチャイルド家に蒐集される。

2007年愛媛県美術館にて大回顧展開催。

高畠達四郎

(たかばたけ たつしろう、1895-1976)
東京都生まれ。

1916年、本郷洋画研究所に学ぶ。
1919年、光風会展に入選。
1921年、帝展入選。
1922年、渡仏。(~28年)
パリ、アカデミーランソンに学び、サロン・ドートンヌなどに出品。
1928年、国画会展に出品。
1930年、独立美術協会創立会員となる。 1953年、以降度々渡欧。
1955年、日本国際美術展で佳作賞受賞。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html