鳥海青児

(ちょうかい せいじ、明治35年(1902)3月4日~昭和47年(1972)6月11日 70才没)
神奈川県平塚市生まれ。本名は正夫。

1921年、3月、藤嶺中学を卒業。翌月、関西大学予科に入学。 1922年、筆名の青児を名乗る。
1924年、3月、第2回春陽会展で『洋女を配する図』、『平塚風景』が初入選。湘南美術会の会員となる。
以後1930年まで連続入選を果たす。また、この頃三岸好太郎の知己を得る。
1927年、関西大学経済学部を卒業。
1928年、第6回春陽会展に出品、春陽会賞受賞。
1930-32年、ヨーロッパ旅行。ゴヤ、レンブラントらの作品に感銘を受ける。
1933年、第11回春陽会展に滞欧作23点を出品。春陽会会員に推挙。
1942年、春陽会を退会。 翌年、独立美術協会会員となる。 1956年、第6回芸術選奨文部大臣賞受賞。 1957年、第4回サンパウロ・ビエンナーレに出品。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

高間惣七

高間惣七(たかま そうしち、1889年(明治31)~1974年(昭和49))
東京都出身、東京美術学校西洋画科卒

白馬会洋画研究所で学んだ後、東京美術学校に進学。
1913年、文展にて初入選となり、翌年に褒状。
帝展では、18年より24年まで6年間連続して特選を受賞、以降、帝展・新文展に
審査員として無鑑査出品を続けた。
24年に槐樹社、32年に東光会、39年に主線美術協会の創立にそれぞれ参加。

戦後は、46年より54年まで日展審査員として委嘱出品を続けたが、55年より独立美術協会に
会員として出品を重ねるようになる。
そのほか、個展・企画展などにも出品して、59年に日本国際美術展で優秀賞を受賞、
60年横浜文化賞、73年勲三等瑞宝章など。

独特の構成と色彩美で静物、植物、鳥、花などを描写。

サインは「Soshichi」など

田崎広助

(たさき ひろすけ、明治31年(1898)9月1日~昭和59年(1984)1月28日 85才没)
福岡県八女郡北山村(現・立花町)生まれ。本名は広次。

1917年、福岡県師範学校(現福岡教育大学)第二部卒業。坂本繁二郎に師事。
1920年、画家を目指し上京。本郷駒本小学校の図画教師となる。
1926年、第13回二科展に『森の道』『山百合』『京都吉田山』が初入選。
1932年から1935年、渡仏。

風景画、特に日本の山を多く描き、その中でも阿蘇山を題材にしたものが多い。
代表作は「初夏の阿蘇山」。

日展審査員、日展評議員、理事、顧問。
日本芸術院賞受賞、日本芸術院会員、勲三等瑞宝章受章、
ブラジル政府コメンダドール章オフィシエ章受章、文化勲章受章、文化功労者。

鑑定人・鑑定機関

田崎広助鑑定登録会
株式会社 ギャラリー・ティー
〒104-0061
東京都中央区銀座1-9-19 法研銀座ビル1F
http://www.gallery-t.co.jp/

清宮質文

清宮質文(せいみや なおぶみ、1917年(大正6)~1991年(平成3))
東京都出身。東京美術学校西洋画科卒

版画家清宮彬の長男として生まれる。
東京美術学校では藤島武二教室、田辺至教室にて洋画を学ぶ。
出征をはさみ、美術教師なを務めながら作品を制作、グループ展などで作品を発表。
1954年、第31回春陽会展に初出品、初入選以来、毎年出品を重ねる。
57年に同会会員に推挙され、しばらく同会を中心とした製作を行った。
77年に退会し、後年は無所属作家として個展を中心に活動した。

他、東京国際版画ビエンナーレ展、リュプリアナ国際版画ビエンナーレ展などに招待出品など。

作風は、洋画を展開していたが、春陽会に出品するようになった頃から、
木版画に取り組むようになり、多色木版、白黒木版共に、手掛け何気ない構図や
モチーフの中に力強い生命力を現した、独自の感性を表現したものが多い。

サインは「N.Seimiya」など

杉本健吉

杉本健吉(すぎもと けんきち、明治38年(1905)9月20日~平成16年(2004)2月10日 98才没)
愛知県名古屋市生まれ。

1925年、京都に出て岸田劉生の門下に入る。
大和の風景・寺院・仏像・博物館等を好んでテーマにし、文展・日展で特選となる。
1949年、奈良 東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、
奈良の風物を描く。志賀直哉、入江泰吉らと交流する。
1977年、名古屋市ヒマラヤ美術館に展示室開設。
1987年、名古屋鉄道により、杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵される。
1989年、世界デザイン博に陶壁を制作する。

鈴木信太郎

(すずき しんたろう、明治28年(1895)8月16日~平成1年(1989)5月13日 94才没)
東京生まれ。

白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事する。
1955年、一陽会を結成し中心的存在として活躍する。
明朗な風景画を得意とした。

多摩美術大学教授、日本芸術院賞受賞、日本芸術院会員、文化功労者。

鑑定人・鑑定機関

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須田剋太

須田 剋太(すだ こくた、明治39年(1906)5月1日~平成2年(1990)7月14日 84才没)
埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。本名 勝三郎。

寺内萬治郎がその才能に注目し、光風会展、官展への出品を勧める。
1936年、文展で初入選。
1939年、文展で「読書する男」が特選。
1949年、抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会会員になり、抽象画の道へ進む。

西宮市民文化賞、吹上町文化功労賞、大阪芸術賞。

須田国太郎

須田 国太郎(すだ くにたろう、明治24年(1891)~昭和36年(1961) 70才没)
京都市出身。

少年期から文芸趣味に秀で、第三高校以来没年まで謡曲を趣味とする。
京都帝大で美学美術史を専攻、写実主義を卒論とし、大学院で絵画の技法論を学ぶ。
1919年、渡欧。マドリードを中心に各地を旅し、
マニエリスム絵画を主とした模写10余点と多数の風景画を描く。
1934年、独立美術協会会員となり、渡欧で得た成果を糧に独自の重厚な作風を確立。
特に黒色の奥深さが印象的です。

日本芸術院会員、京都市立美術大学学長代理、毎日美術賞受賞。

進藤蕃

進藤蕃 (しんどうばん、昭和7年(1933) ~平成10年(1998) 66才没)
東京都出身。

1956年、東京芸術大学美術学部油画科小磯教室を首席卒業、大橋賞受賞。
1957年、グループ黒土会結成に参加。
1960年、フランス政府給費留学生として渡仏。
エコール・デ・ボザール(仏国立美術学校)でモーリス・ブリアンションに師事。
サロン・ナショナル・デ・ボザール展、サロン・アンデパンダン展などに出品。
1967年、中根寛、小松崎邦雄らと濤々会を結成。
1974年、黎の会結成。
1976年、三井物産大手町新社屋の貴賓室・会長室・社長室のフレスコ天井画完成。
1977年、具象現代展を結成し、同人となる。
1982年、国際形象展の同人となる
1983年、個展開催(パリ・ダランパレ美術館、同84年)

地主悌助

地主悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22)~1975年 (昭和50))
山形県出身。

1912年、上京して、文展にて坂本繁二郎の画を見て感動し、翌年には弟子入りを果たす。
しかし、それまでに教員資格を取得しており、師範学校や中学校の教諭。
また山形県の美術団体白甕社の会長等を勤める傍らの制作活動であった。
その後、体調崩したため、他の仕事からは退く。
1954年(42歳)から画業に専念するようになる。

白甕社会長。
主な受賞は日本芸術大賞など