島田章三

島田章三(しまだ しょうぞう、1933年(昭和8)~(現在))
神奈川県出身。東京芸術大学卒

東京芸大在学中より国画会に出品を続ける。
1961年には、国画会会員に推挙される。
同会や安井賞候補新人展(安井展)、個展を開催するなど活躍。
67年には第11回安井展にて安井賞を受賞。

1968年~69年の一年間にわたり渡欧し、パリを中心に制作活動に励む。
この渡欧でキュビスムの画家たちの仕事に接して、画面をつくり上げることの大切さを
再確認するなど、現在の氏の画風の根本的な基となった。
帰国後から現在においても、各種展覧会や個展にて、精力的に活動を続けるなど
現代洋画界の重鎮的作家。

サインは「Shozo」など

芝田米三

芝田米三(しばた よねぞう、大正15年(1926)~平成18年(2006)5月15日 79才没)
京都生まれ。

1939年、京都商業学校入学、今井憲一に師事し油絵を学ぶ。
戦時下入営、戦後、独立美術京都研究所で須田国太郎に師事する。
雑誌 『婦人公論』 表紙画を4年間描き続ける。
日伯美術連盟評議員としてブラジルとの美術交流に務める。

独立展独立賞、サロン・ド・プランタン賞受賞。安井賞展安井賞受賞、安井賞選考委員、日伯美術連盟評議員。
ブラジル・サンパウロ州議会より騎士賞授与、京都府芸術会館理事、京都府文化功労賞。
独立美術協会功労賞、京都市文化功労賞。
日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員、勲三等瑞宝章受章。

里見勝蔵

里見勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28)~1981年(昭和56))
京都府出身。関西美術院・東京美術学校卒

関西美術学院~東京美術学校と画技を学び、在学中の1917年に二科展に初入選。
学校卒業後は、21年~25年まで渡仏。
当時の巨匠ヴラマンクに師事し、フォービズムの画風を修得。
帰国後は、25年第12回二科展に滞仏作を特別出品し、樗牛賞を受賞、
また27年には二科賞を受賞、30年に一時的に二科会会員となる。
独立美術協会の創立に参加、創立会員となる(37年脱会)。
以降、戦時中をはさみ、しばらくは無所属作家として制作活動を行ってきたが、
54年に国画会から会員として迎えられ、以降は同会中心作家として
また日本洋画壇の代表的作家として活躍する。

画風は、ヴラマンクの影響が現れ構図、色彩、立体感など細かな描写を無視し
荒々しいタッチと大胆な色彩で、人間の根源的な感情を表現する。
日本にフォービズム(野生派)画風を伝えた画家の一人とされる。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

坂本繁二郎

坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 明治15年(1882)3月2日~昭和44年(1969)7月14日 87才没)
福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁がいる。

10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。
梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされる。

1907年、『北茂安村』が第1回文展に入選している。
1912年、第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。
1914年、二科会創立に参加。
1921年、渡仏し、アカデミー・コラロッシに在籍し、シャルル・ゲランに師事。
『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、
本場の画家たちから高く評価された。

文化勲章を受章、 朝日賞受賞。

斎藤与里

斎藤与里(さいとう より、1885年(明治18)~1959年(昭和34))
埼玉県出身。本名は与里治。京都聖護院洋画研究所

1905年、鹿子木孟郎の京都室町画塾に続き、浅井忠の京都聖護院洋画研究所に洋画の技法を学ぶ。
翌年、鹿子木孟郎とともに渡欧、パリのアカデミージュリアンにてローランスに師事。
また、ゴッホ、セザンヌ、マチスなど後期印象派やフォービズム表現に影響を受け、1908年に帰国。
12年には、岸田劉生、高村光太郎らと共に、フュウザン会を結成(翌年解散)。
15年には、文展初入選となり、翌16年には特選を受賞。
1924年、牧野虎雄、熊岡美彦らと共に、槐樹会を創立。
更に同年には、大阪美術学校の創立に参加し、洋画部教授として更新の指導に当たる。

帝展を中心に出品を重ねていたが、31年の槐樹会解散を受けて翌年東光会を新たに主宰する。
また、この頃より雑誌「美術新報」の主幹としても活躍を示した。

晩年、1958年に第1回埼玉文化賞、59年加須市名誉市民第1号として表彰される。
日本において初めて、後期印象派やフォービズム的な表現を紹介し、明治後期~大正期にかけての
日本洋画壇に大きな影響をもたらした画家の一人。

サインは「YORI」など

斎藤三郎

斎藤三郎(さいとう さぶろう、1916-1996)
埼玉県生まれ。

1937年、内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
1946年、第31回二科展に初入選(以後、毎年出品)。
1948年、第33回二科展にて特待を受賞。
1949年、サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
1950年、第35回二科展にて二科賞を受賞。
1951年、第2回秀作美術展(朝日新聞社主催)に出品。
1954年、二科会会員推挙。
1961年、第46回二科展にてパリ賞を受賞。
1962年、素描展(新宿画廊)。フランス、スペインに取材旅行。滞欧作品展。
1967年、斎藤三郎個展。サロン・ドートンヌ(グラン・パレ)に出品。
フランス、イタリア、スペイン、モロッコなどに取材旅行。二科会評議員推挙 。

1968年、各団体選抜百人展に出品し互選賞を受賞。
1969年、日本デンマーク交換展(デンマーク文化庁主催、コペンハーゲン市・コンストフォールニンゲンハウス)、第54回二科展にて青児賞を受賞。
1970年、 二科展(ポルトガル政府主催、リスボン・フォス宮殿)サロン・ドートンヌに出品。渡欧。
1971年、斎藤三郎個展(日本橋三越)二科展(レバノン政府主催、ベイルート国立美術館)に出品。
1972年、渡欧。第9回太陽展に出品(以後、毎年)。
第57回二科展に出品、内閣総理大臣賞を受賞。斎藤三郎個展。
埼玉県文化賞受賞。二科会委員となる、またこの頃からスペインの人物を描き始める。
1973年、渡欧、スペインに取材旅行。斎藤三郎個展。
1975年、渡欧、おもにスペイン、イタリア、ベルギーに滞在。
二科展(エジプト政府主催、カイロ国立ファイン・アート・ギャラリー)に出品。
1976年、斎藤三郎個展(日本橋三越)渡欧、スペインに滞在。
二科展(アルジェリア政府主催、アルジェ・キャトルコロヌ美術館)に出品。
第7回日動展に出品(以後、毎年)。
1977年、スペインに取材旅行。
1978年、斎藤三郎個展。スペインに取材旅行。
1982年、第4回日本秀作美術展(読売新聞社主催、日本橋高島屋)。他、個展・団体展など多数。

佐伯祐三

(さえき ゆうぞう、明治31年(1898)4月28日~昭和3年(1928)8月16日 30才没)
大阪市生まれ。

1917年、東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。
1918年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。
1920年、東京府下落合にアトリエを新築して住む。
1924年、パリ郊外のクラマールに住み、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールの自由科に通う。
1927年、パリのブールヴァール・デュ・モンパルナス162番の新築のアトリエに引っ越す。
サロン・ドートンヌ25年記念展で「新聞屋」と「広告のある家」が入選。

佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死した。
25歳で渡仏し、ヴラマンクとの出会いにより画風は大きく変貌します。
作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

斉藤真一

(さいとう しんいち、1922年7月6日 – 1994年9月18日)
岡山県に生まれる。

1948年、東京美術学校(現・東京芸大)卒業。
1949年、第4回日展に初入選。

1960~1970年代 津軽、北陸を旅して、盲目の旅芸人「瞽女」(ごぜ)に出会う。その後の大きなテーマの一つとなった《瞽女》シリーズを手がける。

1971年 、「みさを 女の哀しみ―越後 女日記より」が第14回安井賞展佳作入賞。
1975年、 第11回フランス賞展2席入賞。
1982年、紺綬章授章受章。

1985年、明治期に浅草、吉原に生きた遊女の実態を検証した《明治吉原細見記》を描き、絵画シリーズとともに、『絵草子 吉原炎上』(1985年・文芸春秋刊)を出版、映画や舞台で広く上演される。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

斎藤清

斎藤清(さいとう きよし、1907年(明治40)~1997年(平成9))
福島県出身。

はじめ、同郷の画家成田玉泉にデッサンを学ぶ。
1930年に上京、商店の広告を制作する傍らで画法を修める。
32年に白日展にて、油絵作品が初入選。
36年日本版画協会に初入選したのを機に版画制作へと転向する。
同展のほか造形版画協会展、二科展にも出品、44年日本版画協会会員、49年に国画会会員に就任。

海外でも、48年アメリカ巡回・サロン・ド・プランタン展にて第一等賞を受賞して以来、
51年サンパウロビエンナーレ展、57年リュビリアナ国際版画ビエンナーレ展、
アジア・アフリカ国際美術展にて受賞するなど、国内外で高い評価を得る。個展多数開催。

伝統的な木版技術に、現代的な感覚を取り入れて、故郷の会津の風景などをモチーフにした
温かみのある作品を制作。

サインは「Kiyoshi Saito」 「清」 など

小山正太郎

小山正太郎 (こやましょうたろう、安政4年(1857) ~大正5年(1916) 59才没)
新潟県生まれ。

1871年、上京。幕末維新期に一早く西洋画法を学んでいた川上冬崖の画塾聴香読画館に入門。
1874年、陸軍士官学校の図画教授係になる。ここでフランス人御雇教師アベル・ゲリノーから図学と水彩画を学んだ。
1876年、工部美術学校開設とともに入学。イタリア人御雇教師アントニオ・フォンタネージに学ぶ。
1878年、十一会結成。
1900年、パリ万博の出品監査委員となる。

東京高等師範学校の図画科主任、文展審査委員。