四代 一入

(1640年~1696年)

三代道入の長男
道入の影響を受けた大らかな初期から、長次郎の伝統に根差す、侘を重んじる晩年へと作風の変化が見られる
黒釉に朱色の釉が混ざりあう「朱釉」(しゅぐすり)を完成させ、後世に大きな影響を残す

十一代 慶入

(けいにゅう、1817年(文化14)~1902年(明治35))
丹波酒造屋小川直八の子として生まれ、のちに旦入の婿養子として楽家に入る。

11代楽吉左衛門

1845年、28歳の頃に12代楽吉左衛門として家督を襲名。
西本願寺御庭焼露山窯に従事し、同寺明和光尊より号・雲亭を賜る。
のち、1871年の隠居後、慶入と名乗った。
また京都府の御用に従事、博物館の御用掛けなど、主に京都中心の活躍となった。
慶入の時代は、幕末~明治にかけての動乱期にあたり、茶や伝統文化の廃れた時代であったが
茶碗のほかに、立体的な置物などを作り、作陶に多様性を加えた。

印には、大徳寺大綱和尚筆の細書体の「楽」印を主に使用し、その他に行書体の「楽」、
草書体の「楽」、隠居後は上部に「白」中部に「絲(実際には糸偏が並列)」下部に「木」といった
独自の「楽」の書体の印を使用した。

五代 宗入

五代 宗入(そうにゅう、1664年(寛文4)~1716年(享保元))
雁金屋三右衛門の子。本名は平四郎、惣吉のち吉左衛門

5代 楽吉左衛門

幼少時に一入の養子となり陶技を継承。
元禄4年27歳の頃、5代吉左衛門を襲名する。
歴代楽家の中でも最も初代長次郎の作風に近く、よく研究した。
また独自の釉薬「カセ釉」を用いて、重厚な黒楽茶碗を得意とした。
そのほか宗入の赤楽茶碗は白みを帯びており特徴となる。

陶印は、印は楽印のほか字体の判別が困難な崩し「樂」印を使用。また無印の作品も多い。

十二代 弘入

十二代 弘入(こうにゅう、1857年(安政4)~1932年(昭和7))

11代慶入の長男。本名は、小三郎、惣次郎(幼名)のち吉左衛門、喜長

12代楽吉左衛門

1871年家督を継ぎ吉左衛門を襲名。
黒楽茶碗、赤楽茶碗共に、色彩表現に優れ、釉薬を二重にかけることにより色の変化を演出。
また、箆(へら)使いにおいては、9代了入を基礎としながらも独自に研究。
独特の穏やかな胴の丸み、男性的で豪放的な作品を残す。

印には糸偏が8を模る「8楽」が主流、そのほか徳川頼倫候筆の「楽」、
碌々斎宗左筆の草書「楽」、「十二代喜長」の角印を使用。
西本願寺用に瓢箪型の中に「澆花」とされた印もある。
印名は「樂」(「楽」)「十二代喜長」

九代 了入

九代 了入(りょにゅう、1756年(宝暦6)~1834年(天保5))
7代長入の次男、8代得入の弟。本名は惣次郎(幼名)のち吉左衛門、喜全

9代楽吉左衛門

兄が25歳の頃、隠居したため14歳の頃に家督を襲名。
了々斎宗左より了の一字を贈られ了入と号した。
1819年には了入の次男(のちの旦入)と共に紀州徳川家御庭焼に従事。

作風は手捏ね技法における箆(へら)削りの技術に優れ、以降の楽歴代吉左衛門に
多大な影響を与え楽家中興の祖とされる。

陶印は樂の「白」が「自」となり、3本線が右下がりで彫られているのが特徴。
また、隠居後は草書体樂印を使用した。

十四代 覚入

十四代 覚入(かくにゅう、1918年(大正7)~1980年(昭和55))
京都府出身。東京美術学校(彫刻科)卒

14代楽吉左衛門

1945年14代楽吉左衛門を襲名。
東京美術学校で近代的な造形を学び、また独自に緑釉、赤砂釉、幕釉、白釉などを研究し
伝統を継承しながらも、歴代吉左衛門にはなかった色彩やデザインを強調するような作品を展開。
没後十六代覚々斎宗左より覚入と号される。
京都伝統工芸家協会役員。

印名は「楽」(自筆草書体)(また1959年に高松宮妃殿より同妃殿下自筆の「楽」印を拝領)
「十四代喜慶」など

八代 得入

八代 得入(とくにゅう、1745年(延享2)~1774年(安永3))
7代長入の長男、本名は惣吉(幼名)のち吉左衛門のち佐兵

8代楽吉左衛門

18歳時に家督を襲名するが、25歳(1770年)のころ父長入が没すると
家督を弟に譲り、自らは隠居となり佐兵衛と名乗る。
吉左衛門としての制作期間が短くさらに早世だったため遺作はほとんど残っていないが
現存作品から作風を見ると大半が赤楽の作品で、独自の作風を築く前に没しているせいか
父・長入に似た作品を残している。
号の得入は没後25回忌にて贈られたものである。

陶印は樂の「白」字真中が「ヽ」となるのが特徴。