(1887年~1944年)
弘入の長男
1919年、32歳で十三代吉左衞門を襲名
茶道研究誌「茶道せゝらぎ」を発刊など茶道文化啓蒙の為精力的に活動した
惺入の作風は生真面目な惺入の性格を映したような伝統的な樂茶碗のスタイルに沿ったもの
(1887年~1944年)
弘入の長男
1919年、32歳で十三代吉左衞門を襲名
茶道研究誌「茶道せゝらぎ」を発刊など茶道文化啓蒙の為精力的に活動した
惺入の作風は生真面目な惺入の性格を映したような伝統的な樂茶碗のスタイルに沿ったもの
(1857年~1932年)
慶入の長男
1871年、十二代吉左衞門を襲名
1919年、剃髪隠居して弘入と号す
15歳で家督を継ぎ、幕末明治の激動の時代において父、慶入と共に奮闘の日々を重ねる
丸みをもった温和な造形、独特の装飾的な篦使いが特長
また赤樂茶碗の色調は変化に富み、軽やかな赤色
(1817年~1902年)
旦入の娘、妙國の婿養子
1845年、十一代吉左衞門を襲名
1871年、剃髪隠居して慶入と号す
文明開化の激動の時代の中、伝統文化の廃れゆく逆境の中で75年におよぶ長い作陶生活を送り、
茶碗以外にも茶器類また置物など歴代の中で最も多様な作域を示した
(1795年~1854年)
了入の次男
1811年 十代吉左衞門を襲名
1845年 剃髪隠居して旦入と号す
父、了入の篦削りを主体とした作風をさらに追求する
また、窯変による鮮やかな変化をみせる赤樂茶碗などが特長
(1756年~1834年)
長入の次男
兄、得入が25歳で隠居した為、
1770年 14歳で九代吉左衞門を襲名 1811年、剃髪隠居 了入と号す
一つの技法に縛られない自由闊達な作陶生活を送る
手捏ね技法における箆削りを強調したものが有名
(1745年~1774年)
長入の長男
1762年、八代吉左衞門を襲名
1770年、剃髪隠居して佐兵衞と号す 得入の名は没後25回忌の際に贈られたもの
若くして病死した為、作品数は少ない
(1714年~1770年)
左入の長男
1728年、七代吉左衞門を襲名
1762年、剃髪隠居 長入と号す
大らかな長入自身の人柄を表すような、たっぷりと大振り、厚造りで豊かな量感を持つ作風が特徴
(1685年~1739年)
宗入の娘、妙修の婿養子
1708年、六代吉左衞門を襲名
1728年、剃髪隠居して左入と号す
他家から迎え入れられた左入独自の、樂焼の伝統様式、光悦、他陶芸芸術の模作から
多くを吸収した作風が特徴的
(1664年~1716年)
一入の娘、妙通の婿養子
1691年、五代吉左衞門を襲名
1708年、剃髪隠居して宗入と号す
光琳、乾山が琳派と呼ばれる豪華で装飾的な様式美を完成させた元禄時代において、
宗入は装飾性を排した長次郎茶碗の追求に自らの創作の基盤を求め、独自の作風を追い求めた
(1640年~1696年)
三代道入の長男
道入の影響を受けた大らかな初期から、長次郎の伝統に根差す、侘を重んじる晩年へと作風の変化が見られる
黒釉に朱色の釉が混ざりあう「朱釉」(しゅぐすり)を完成させ、後世に大きな影響を残す