三代 勘兵衛

(1727年(享保12)~1802年(享和2))

3代 大樋長左衛門

2代長左衛門の次男として生まれ家業を受け継ぐが、2代同様現存作品が少なく、
詳細についても不明な部分を多く残すが、三代の印は他の歴代の印とは異なり
独特な大樋印を使用している点が、特徴的で2代の楕円形大樋印を使用している作品も残している。

陶印は丸印「大樋」 楕円「大樋」など

八代 以玄斉

八代 以玄斉(1851年(嘉永4)~1927年(昭和2))
本名は奈良理吉

8代 大樋長左衛門(大樋宗春)

明治新時代と重なり、大樋焼きだけでなく全国の茶陶文化衰退のころ、
7代道忠(長左衛門)の長男と次男がいずれも家業に従事せず家を出た為、
道忠の従兄弟に当たる奈良理吉が大樋家に入り家督を襲名する。
襲名後はよく伝統の陶技を守りながらも、独自の創意を加えた作品を製作し、
動乱の明治期をかくにも乗り越え、現在の大樋焼隆盛につなげた。
また大徳寺松雲老師から号、松涛、裏千家十三世家元円能斎宗匠から号、以玄斎を賜っている。

印名は、変形「大樋」 二重枠「樋」 丸印「大樋長」 など歴代の物に比べ特徴的である。

五代 勘兵衛

五代 勘兵衛(1781年(天明元)~1856年(安政3))
本名は勘兵衛

5代 大樋長左衛門

4代大樋勘兵衛(土庵)の長男として生まれる。
父に技法を学び、1816年に5代朔太郎を襲名。
加賀藩主13代前田斎広の御用陶師を務め、通例となっていた大福茶碗などを献上。
1850年には江戸藩邸にて、11代徳川家斉将軍の前で陶技を披露するなどよく家芸を守った。
また、陶技については抜き絵の黒茶碗や型物、上絵付けなどを得意とし、
歴代長左衛門の中でも初代に次ぐ名工と称された。

陶印は丸印「大樋」二重枠小判印「お本ひ」など

二代 左衛門

(1660年(万治元)~1747年(延享4))
京都出身。本名:長二のち長左衛門

2代 大樋長左衛門

初代長左衛門の京都時代に長男として生まれる。初名を長二、父の後を次いで長左衛門を名乗る。

2代の作品は製作期間が少なかったのか、経年的なものか初代の作よりも現存が極めて稀であるが
その中での技量を見ると、歴代長左衛門の中でも随一ともいえる作域を見せている。

陶印は小判印/二重枠印「大樋」 など

七代 道忠

七代 道忠(1835年(天保6)~1896年(明治29))

7代 大樋長左衛門

5代長左衛門の4男で、6代長左衛門の弟に当たる。
幕末~明治にかけて動乱及び明治以降の廃藩によって、全国のお庭焼が藩の庇護を失い
苦境を向かえたが、大樋焼7代も類に漏れず、1869年の前田家出京と前後して一時廃窯となる。
しかし84年大樋町の隣町である春日町に窯を築いて、大樋焼再興への基盤となった。

陶印は丸印/角印「大樋」 など

四代 勘兵衛

(1750年(寛延3)~1839年(天保10))

4代 大樋長左衛門

三代長左衛門の三男として生まれ、家業を受け継いでいる。
歴代の中でも屈指の名工と称される。
伝統的な大樋焼飴釉作品のほか黒飴、白釉薬を用いた楽焼などの技法を研究して
新たな大樋焼の作風を生み出しており、茶陶のほか彫塑的な置物類にも秀でた作品を残している。
1816年66歳のときに退隠して土庵と号している。

陶印は丸印/角印「大樋」 草書印「樋長」 など

初代 長左衛門

初代 長左衛門(ちょうざえもん、1629年(寛永6)~1712年(正徳2))
大坂出身。本名は土師(本姓)、長二

初代 大樋長左衛門

元は河内国土師に住む土師姓の出自といわれている。
1656年に京都に出て、楽家一入に楽焼の製法を学び、二条川原町付近に居を構えていた。
その為、当時にその近辺で楽の脇窯を焼いた押小路焼にも、なんらかの関係が有ったのではと
推測されている。
66年に加賀藩の茶頭を務めていた裏千家4代の仙叟宗室の推挙で、加賀前田家に仕える。
藩主の前田綱紀より、金沢東郊の大樋村に住居を賜ったので、そのまま大樋を姓とした。

初代の作品の現存は少ないが、現存する茶碗作品を見てみると雅味に欠け、
平凡な作域の物が残るが、それが元々の作陶技術が巧みでなかったのか、
仙叟の好みによる物なのかの判別には議論が分かれている。
彫塑的な置物の作風をみると有る程度の巧妙な技量を見る事が出来るため
仙叟の好みによる部分が大きいと推測される。
また、大樋焼は初代の頃より飴釉を基本に焼かせているが、これは前田家が京の楽家と千家との間柄を
考慮して黒楽、赤楽の物は極力控え、異なる作風を求めた為とされる
(数は少ないが黒楽茶碗を残している)。
また、茶碗に在印の物も稀にあるといわれるがほとんどが無印。

陶印は「大樋長」 など

十二代 弘入

十二代 弘入(こうにゅう、1857年(安政4)~1932年(昭和7))

11代慶入の長男。本名は、小三郎、惣次郎(幼名)のち吉左衛門、喜長

12代楽吉左衛門

1871年家督を継ぎ吉左衛門を襲名。
黒楽茶碗、赤楽茶碗共に、色彩表現に優れ、釉薬を二重にかけることにより色の変化を演出。
また、箆(へら)使いにおいては、9代了入を基礎としながらも独自に研究。
独特の穏やかな胴の丸み、男性的で豪放的な作品を残す。

印には糸偏が8を模る「8楽」が主流、そのほか徳川頼倫候筆の「楽」、
碌々斎宗左筆の草書「楽」、「十二代喜長」の角印を使用。
西本願寺用に瓢箪型の中に「澆花」とされた印もある。
印名は「樂」(「楽」)「十二代喜長」

九代 了入

九代 了入(りょにゅう、1756年(宝暦6)~1834年(天保5))
7代長入の次男、8代得入の弟。本名は惣次郎(幼名)のち吉左衛門、喜全

9代楽吉左衛門

兄が25歳の頃、隠居したため14歳の頃に家督を襲名。
了々斎宗左より了の一字を贈られ了入と号した。
1819年には了入の次男(のちの旦入)と共に紀州徳川家御庭焼に従事。

作風は手捏ね技法における箆(へら)削りの技術に優れ、以降の楽歴代吉左衛門に
多大な影響を与え楽家中興の祖とされる。

陶印は樂の「白」が「自」となり、3本線が右下がりで彫られているのが特徴。
また、隠居後は草書体樂印を使用した。

六代 左入

六代 左入(さにゅう、1685年(貞亨2)~1739年(元文4))

大和屋嘉兵衛の次男。本名は惣吉(幼名)のち吉左衛門、嘉顕

5代宗入の婿養子として楽家を継承、襲名した。
長次郎・ノンコウなど歴代先人の写しのほか本阿弥光悦の茶陶を研究し
独自の釉薬「左入釉」完成の糧とした。
また、如心斎宗左に茶を学び、茶人や俳人としても名を残す。

陶印は内枠いっぱいまで樂印が拡張されているのが特徴。