六角紫水(ろっかく しすい、1866年(慶応2)~1952(昭和27))
広島生まれ。東京美術学校卒業。
美術院会員。東京美術学校教授、帝展審査委員。
天心、大観、春草等と渡米。
ボストン、メトロポリタン博物館にて漆器の修復を担当。
勳6等瑞宝章受賞。
中尊寺金色堂、厳島神社社殿修復。
六角紫水(ろっかく しすい、1866年(慶応2)~1952(昭和27))
広島生まれ。東京美術学校卒業。
美術院会員。東京美術学校教授、帝展審査委員。
天心、大観、春草等と渡米。
ボストン、メトロポリタン博物館にて漆器の修復を担当。
勳6等瑞宝章受賞。
中尊寺金色堂、厳島神社社殿修復。
六角大壤(ろっかく だいじょう、1914年(大正3)~1973(昭和48))
東京都出身。父親は、六角紫水。本名は頴雄
東京美術学校卒
父六角紫水について漆芸を学ぶ。
旧官展、日展、日本工芸会展などを中心に活躍。
蒔絵作品に秀作を残す。
日本工芸会正会員、日展審査員、東京藝術大学教授
森岡嘉祥(もりおか かしょう、1937年(昭和12)~(現在))
京都市出身。
京都の窯元2代森岡嘉祥を父に持ち、五条坂に生まれ。
1956年に19歳で3代嘉祥を襲名。
以来、表千家家元ら多数の著名茶人らと親交を深め、伝統の上にも新しい感覚の茶陶制作を心掛けて
その研鑽と追及を続け、主に個展を中心に作品を発表。
また中国や韓国の古窯跡を訪ねて、青磁や刷毛目、高麗を研究、近年では釉裏紅など
色鮮やかな釉薬発色を基調とした作品にも取り組む。
五条坂の窯のほか74年に山科に公害防止装置付登窯、98年に信楽に穴窯を築窯。
印名は「嘉祥」など
村瀬治兵衛 2代(むらせ じへい、1927年(昭和2)~(現在))
愛知県出身。愛知県立工業学校図案科卒
代々、木地師を業とする家に生まれる。
父は木地の仕事に塗りを加えて作品を制作した村瀬治兵衛。
父に仕事を学んで、1976年に2代村瀬治兵衛を襲名。
木地から塗りまでを一貫した全工程を一人で行い、木地の良さを殺さず引き立てる塗りを信条に
独楽塗、根来塗などの技法を駆使して道具造りに励む。
愛知県商工会議所展特賞をはじめ各展にて活躍、そのほか名古屋名鉄、東京日本橋三越、
名古屋三越、大阪三越、大阪高島屋ほかにて個展多数開催。
印名は「治」 など
松田 権六(まつだ ごんろく、明治29年(1896)4月20日~昭和61年(1986)6月15日 90才没。)
石川県金沢市生まれの蒔絵師である。
7歳で蒔絵の修行を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科を卒業。
1947年日本芸術院会員。
1955年に重要無形文化財(人間国宝)保持認定を受ける。
「うるしの神様」の異名を持ち、ドイツ皇帝が詔勅にサインするのに使用された蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作を指導。
増村益城(まつむら ましき、1910年(明治43)~1996(平成8))
熊本県益城郡出身。本名は成雄(なりお)。熊本市立商工学校漆工科卒
商工学校を卒業後、奈良の辻 永斎、次いで東京の赤地友哉の下で修行を重ねる。
1937年、独立。
以降、戦前では新文展に出品し、戦後よりは日展や日本伝統工芸会に出品する。
58年の伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞するなど活躍を示した。
作品では確固たる乾漆芸の技に加え、独自の研ぎ出しによる仕上げ(髹漆技法)
を施した洗練されたデザインの創作漆芸を展開する。
78年に髹漆技法により国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定、80年には勲四等瑞宝章を受章している。
落款名は「益城」「益」など
前大峰(まえ たいほう、1890年(明治23)~1977(昭和52))
石川県輪島市出身。本名は得二。
3代橋本佐助に沈金技術を学ぶ。
1912年、独立する。
1929年、第4回帝展初入選となる。翌年「沈金遊鯰手筥」で特選を受賞。
戦後は日展に出品を重ね46年代1回展で特選、49年第4回展で文部大臣賞を受賞。
1955年、日本工芸会の設立に参加。
同年、沈金技法により国指定重要無形文化財(人間国宝)の認定を受ける。
以降、日本伝統工芸展を中心に活躍する。
62年石川県文化功労者、63年輪島市名誉市民、75年勲四等瑞宝章を受ける。
輪島伝統の沈金技法では線彫りによる表現が主であったが、
点彫にすることによって全体的な立体感の表現を可能にし近代漆芸において
その可能性を広げた功績は大きい。
刻印は「大峰刀」「大峰」など
玉楮象谷(たまかじ ぞこく、1806年(文化3)~1896(明治29))
讃岐(香川県)出身。
20歳の頃京都に赴き漆塗りの唐(中国)伝来の漆塗りの技法を学ぶ。
独自の技法により堆朱、堆黒といった彫漆の作品やキンマと呼ばれる南方渡来の籃胎漆器を展開し
高松藩の漆塗師として活躍、その技術は神業と絶賛された。
そうした作品は藩主から讃岐塗、讃岐彫と奨励されるようになり、
現在の讃岐漆工芸の基盤となった人物。
尚玉楮家はその後3代で明治末期に途絶えたが、
その後象谷の作品に私淑した音丸耕堂や磯井如真らが活躍し、
讃岐漆芸を全国に広めた。
印名は「象谷」 「玉楮象谷」 「讃岐」 など
高野松山(たかの しょうざん、1889年(明治22)~1976年(昭和51))
熊本県出身。本名は重人。
地元熊本にて漆芸を学んだ後、京都市立美術工芸学校を経て東京美術学校漆芸科に入学。
白山松哉に師事する。
1927年、帝展に初入選。以来、同展に入選を重ね、32、33年に連続特選を受賞。
戦後は日展、日本伝統工芸展を中心に出品し、1958年に新綜工芸会を結成。
55年、蒔絵技術により国指定重要無形文化財(人間国宝)、65年紫綬褒章、キワニス文化章など高く評価される。
白山松哉に学んだ伝統的な技法と精緻で厳密な技法を基本に
それらの技術を近代的造形の中に生かした作品を制作。
白山松哉(しらやま しょうさい、1853年(嘉永6)~1923(大正12))
江戸出身。本名は細野福松。
はじめ、蒔絵技術を小林好山に学び、次いで椎朱、椎黒、螺鈿の技法を蒲生盛和に師事。
明治維新後は起立工商会社に勤務。
緻密な研ぎ出し蒔絵技法に優れ精巧な作品を多く残し
国内での評価も高いが、それ以上に海外で高い評価をされる。
1892年に東京美術学校教授に就任、1896年帝室技芸員を拝命。
印名は「松哉」「枩哉」など