奥村政信

奥村政信(おくむら まさのぶ、1686年(貞享3)~1764年(明和元年))
江戸出身。本名は親妙。通称は源八・源六

鳥居清信に浮世絵を学び、更に独自に研究を進めて墨摺絵、丹絵、漆絵などのオリジナル技法の
創始、遠近法を用いて、新たな趣向の見立画を多く残す。
後進の浮世絵師に多大な影響を与えた絵師として知られる。
錦絵、肉筆画ともに優れた作品を残す。版元も自営。

肉筆画では大和絵などの諸派の技法を取り入れ「歌舞伎図屏風」など
多くの人々の表情を豊かに書き上げている。

印名「政信」 「奥邨」(「奥村」) など

岡文濤

岡文濤(おか ぶんとう、1875年(明治9)~1943年(昭和18))
京都府与謝野郡出身。京都市立美術工芸学校卒

京都市立美術工芸学校絵画科卒業後は、山元春挙に師事。
1911年、第5回文展にて「杉垣」が初入選。
以来、文展、帝展など官展作家として活躍を示した。

本来は花鳥画を得意としたが、1914年第8回文展の「梅雨の頃」では、雨中の田植え仕事をモチーフに、
また、その翌年には朝鮮風俗を題材にした「スリナビ」などを発表しており
多範囲にわたって画題を求め、晩年には文人画風の南画も取り入れた。

印名は「文濤」「岡濤」「清中人」「長主楽園主人」など

岡田米山人

岡田米山人(おかだ べいさんじん、1744年(延享元)~1820年(文政3))
大坂の人。本名は國(国)、通称は彦兵衛

初め米穀商を営んでいたので、米山人と号す。
その後、伊賀藤堂藩に仕え、絵師となる。

作品は、南画調を基本とし、大胆な筆使いを用いた迫力ある山水画などを得意とした。
また、浦上玉堂や田能村竹田等ともよく交友した。
子に岡田半江がいる。

「秋山蕭寺図」が重美指定となっている。

印名は「士彦」「田國之印」(「田国之印」)「米山人」「寛宏」など

岡田半江

岡田半江(おかだ はんこ、1782年(天明2)~1846(弘化3))
大阪出身。
本名は粛。号は半江、小米、無声、自適、寒山、寒墨江老樵山寺外史、寒山寺野叟俗称、独松楼など

画を父岡田米山人に学ぶ。
また、独自に南宋画の研鑽を積んで画技を修得。
1809年、父の後を継いで伊勢藤堂藩に絵師として出仕。
翌年、父との合作安積家障壁画の制作に取り組み活躍を示すが、その後大阪に戻り
父の没後は大阪画壇の中心的な画家としての地位を確立、
南画山水、花弁など緻密な描写を得意とした。
また、浦上春琴など当時の一流文人・画家らと交流を深め詩文にも秀で、
自らの作品に賛を付したものをよく残している。

代表作に「春霞起鴉図(自賛)」(重文指定)

印名は「半江」 「田粛」 「田粛之印」 「小米虫」 など

小倉遊亀

小倉 遊亀(おぐら ゆき、明治28年(1895)3月1日~平成12年(2000)7月23日 105才没)
滋賀県大津市丸屋町に生まれる。

女子高で国文学を教えるかたわら、1920年より安田靫彦に師事。
1926年に「胡瓜」が院展に入選。以後1998年に「椿三題」を出品するまで連続入選。

人物や静物などを題材とし、現代的叙情と古典的香気な画風。
奈良女子大学の講堂の緞帳は、小倉遊亀の「爛漫」が原画である。

日本美術院、文化功労者、文化勲章を受章
日本美術院理事長(1990から1996)

尾形乾山

尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年)~寛保3年(1743年7月22日) 81才没)
京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれる。六歳年上の兄は尾形光琳である。

乾山は父の莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、
霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。
1689年、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。
野々村仁清から本格的に陶芸を学ぶ。

京の北西・鳴滝に窯を開く。
北西(乾)の方角あたることから、「乾山」と号した。
江戸時代の絵師、陶工。

乾山の名は代々受け継がれていった。6代乾山(1851-1923年)はバーナード・リーチの師。

尾形光琳

尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年)~享保元年(1716年7月20日) 59才没)
京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた。弟は尾形乾山。

大画面の装飾的な屏風絵から、水墨画まで作風は多彩だが、
どの作品にも都会的センスとデザイン感覚があふれている。
弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き小袖の絵付け、漆工芸品のデザインに至るまで、
幅広くその才能を発揮している。

後世「琳派」と呼ばれる。

代表作に、 燕子花図 六曲屏風、紅白梅図 六曲屏風など。

奥村土牛

奥村 土牛(おくむら とぎゅう、明治22年(1889)2月18日~平成2年(1990)9月25日 101才没)
東京市京橋区南鞘町(現東京都中央区京橋一丁目)に生まれる。

16歳で小林古径に日本画を師事。
号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩から引用してつけられた。

刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、
非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。
現代日本画壇の最高峰に位置した代表的な日本画家の一人である。

日本美術院同人、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)日本画科教授
東京美術学校(現東京芸術大学)講師、帝国芸術院会員、文化勲章受章
日本美術院理事長、東京都名誉都民

長野県に奥村土牛記念美術館がある。

奥村厚一

奥村厚一(おくむら こういち、1904年(明治39)~1974年(昭和49))
京都府出身。京都市立絵画専門学校卒

京都市立絵画専門学校を卒業後、西村五雲の画塾に入塾、画技を磨く。
1929年、第10回帝展にて初入選。帝文展にて受賞を重ねる。
戦後は46年第2回日展いて特選受賞、また創造美術会の結成に参加、
同会から新制作協会、創画会と作品を発表した。

作風は風景画を中心に制作し当初は師の画風をよく継承していたが、
中晩年からは水墨や洋画の技法を取り入れ独自の色彩表現を確立した。

印名は、「厚一」「厚」「厚壱」など