奥田元宋

奥田 元宋(おくだ げんそう、明治45年(1912)~平成15年(2003)2月15日 90才没)
広島県双三郡八幡村(現在の三次市吉舎町八幡)に生まれる。本名厳三。
1931年に上京し遠戚の児玉希望に師事。
1936年、文展鑑査展に「三人の女性」が初入選。
1938年、第2回文展で「盲女と花」が特選受賞。
1962年、第5回新日展に『磐梯』が文部大臣賞、文化庁買上げになる。
1981年、真言宗大聖院の本堂天井画『龍』を制作、文化功労者に選ばれる。
1984年、文化勲章受章

広島県名誉県民、日本芸術院第一部(美術)部長

作品は主に山種美術館 に収蔵。

小川千甕

小川千甕 (おがわせんよう 明治15年(1882)~昭和46年(1971) 90才没)
京都市出身。本名は多三郎。

早くから古典に親しみ、聖護院洋画研究所で浅井忠に洋画を学ぶ。
大正2年には渡欧し、洋画の研鑚に励む。
帰国後、南画に転じ、芭蕉・蕪村・良寛を好む。
戦後は個展を中心に作品を発表した。
仏典・漢文・国文に造詣が深く、自分も和歌・俳句・随筆をよくし、歌人としても知られている。

小川芋銭

小川 芋銭(おがわ うせん、本名:小川茂吉、慶応4年(1868)2月18日~昭和13年(1938)12月17日 71才没)
江戸の牛久藩邸で生まれる。小川家は、木村重成の子孫である。

最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、
本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。
横山大観に認められ、日本美術院同人となる。

河童の絵を多く残したことから『河童の芋銭』として知られている。
本美術院同人となる。 作品は水墨淡彩で独自の画風。

尾形月耕

尾形月耕(おがた げっこう、1859年(安政6)~1920年(大正9))
江戸出身。本名は鏡 正之助 (田井正之助)、号は月耕、華暁桜。

尾形光哉の養子となる。
はじめは独学にて画技を習得していたが、谷文晁、菊池容斎、
川鍋暁斎らの画風に私淑するようになり、ビラ絵の仕事を生活の糧としていた。
明治に入ると人力車に蒔絵を施す画家として人気となる。
また貿易用の陶器や七宝の絵付け画家としても活躍。
そのほか、新聞挿絵、小説の装丁なども手掛けている。

本業の日本画家としても、1891年に日本青年絵画協会の設立に参加し、
日本絵画協会、日本画会にも出品を重ねる。
1898年、日本美術院創立に際しては創立同人として出品、銀賞を受賞。
パリ万博、シカゴ万博、日本美術協会展、勧業博覧会、文展などで国内外を通じて出品、受賞を続けた。

主に、歴史風俗、人物画の描写に優れた作品を残している。

印名は「月畊」(「月耕」)「華暁桜」「華暁桜山人」「吉中吉」「江上情風」
「山明月旬〃」「源李巴印」「一叡山一」など

大山忠作

大山忠作(おおやま ちゅうさく、1909年(大正12)~2009年(平成21))
福島県出身。東京美術学校卒。

東京芸術学校卒業後、昭和21年第2回日展において初入選。
22年、山口 蓬春門下となり、27年第8回、30年第11回日展で特選を受賞。
36年に日展会員に推挙、43年には第11回新日展に審査員として出品し日展文部大臣賞を受賞。
日展の中心的画家として活躍を続け、48年には日本芸術院賞受賞。
日展評議員や理事などの要職にも就き、61年には日本芸術院会員に就任。
平成8年、勲三等瑞宝章を受章しており、現代日本画の重鎮的存在となる。

画題は人物画、宗教的作品、花鳥、風景など広くこれは
「描きたいと思ったときに描きたいものを描く」と言うスタイルの現れであり、
いずれの作品も高く評価されているが、その中でも特に鯉の描写に優れ
氏の代名詞ともなっている。
2006年10月文化勲章受賞。
平成21年2月敗血症のため死去。86歳。

印名は「忠」 「忠作画印」など

大矢十四彦

大矢十四彦(おおや としひこ、1940年(昭和15)~(現在))
新潟県出身。東京芸術大学日本画科卒

1962年大学卒業、同年に第5回新日展に初入選、翌年も入選となる。
66年よりは院展、春の院展に出品を重ねるようになり、同時に院展同人の今野忠一に師事。
96年第81回院展及び、2000年85回院展、2001年86回院展にて奨励賞を受賞、
春の院展でも2000年に第55回春の院展奨励賞を受賞。
そのほか、度々個展にて作品を発表している。

父に日本画家大矢黄鶴、兄に同じく日本画家の大矢紀を持つ。
富貴、椿、桜など花図や花鳥図を得意とする。

印名は、「古竹」など

大矢紀

大矢紀(おおや のり、1936年( 昭和11)~(現在))

新潟県出身。前田 青邨、平山 郁夫に師事する。
1955年第40回院展で初入賞を果たす。
1957年、日本美術院院友に推挙、同年前田青邨に師事を仰ぐ。
また1970年ごろより画壇に認められ、70年院展・白寿賞、71年春季展賞、76年日本美術院展賞、
83年外務大臣賞、84年前田青邨賞など受賞。
2000年に院展評議員に推挙され地位を高めた。
岩彩を用いた立体的な風景画を得意する。

印名は、「紀」

大森運夫

大森運夫(おおもり かずお、1917年(大正6)~(現在))
愛知県出身。広島高等師範学校中退。

1940年、病気のため師範学校を中退し画家を目指す。
戦後からは、郷里の愛知で教鞭をとる傍ら制作活動を行い51年に第15回新制作協会展に入選。
以降同会や同会からの分離団体である創画会に出品を重ね活躍。
62年に第26回新制作協会新作家賞を受賞したのを機に、教員を退職し画業を主とし、
74年に創画会が創立されると創画会会員となり同会や日本秀作美術展などに出品し、
独自の画風を築く。

初期の画題には戦後の労働者、母子などをモチーフに社会性を訴えた作品を多く制作したが
壮年期には能の世界や秋田おばこといった芸能の世界で神秘的・優雅な作品を展開。
近年は人形浄瑠璃、仏画などを描きすべての画題に通じてのテーマ性は「人間」であり、
労働者などの社会の底辺の「人間」~崇拝する「仏」にいたるまで人間のもつ内外の美意識と
本質を追求しつづけている。

印名は「運」「運夫」など

大原呑舟

大原呑舟(おおはら どんしゅう、不明~1857年( 安政4 ))
大原呑響の子。本名は鯤、字は呑舟、号は崑崙。

柴田義董に師事し、四条派、狩野派、南画の統合した独自の画技を展開。
父を継いで大原派を確立する。
文鳳門主宰展観、加納硯圃主宰展観などに出品。
また安政の御所造営の際には、小御所の杉戸画を任されるなど活躍した。

山水から花鳥、動物、人物まで幅広く描き特に山水の緻密な描写、迫力感は
圧倒的に当時の他の画家とは一線を画していたとされている。

印名は「呑舟」「崑崙」「鯤」「雲臥樓」など