伊藤小坡

(いとう しょうは、明治10年(1877)4月24日~昭和43年(1968)1月7日 92才没)
本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)は、三重県宇治山田(現在の伊勢市)に生まれ。
京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家である。

森川曽文に師事し「文耕」の雅号をもらうが、曽文が病に倒れたため、
歴史画を得意とする谷口香きょう(山喬)に師事し、「小坡」の雅号を名乗る。
明治38年に同門の伊藤鷺城と結婚。

大正4年には第9回文展にて「制作の前」が初入選で三等賞を受賞。
上村松園に次ぐ女性画家として一躍脚光を浴る。

昭和3年にかねてより尊敬していた竹内栖鳳が主催する画塾である竹杖会の一員となる。
第9回帝展に「秋草と宮仕へせる女達」を出品。

全ての作品の中にある小坡の人間に対する視線はいつの時代でも一貫しており、その視線を通じて描き出された人物像の存在感こそが小坡作品の魅力である。

鑑定人・鑑定機関

大阪美術倶楽部鑑定委員会
〒541-0042 大阪市中央区今橋2-4-5
TEL:06-6231-9626
http://daibi.jp/service/kantei/

石崎光瑤

石崎光瑤(いしざき こうよう、1884年(明治17)~1947年(昭和22))
越中(富山県)出身。本名は猪四一、号は光瑤。

琳派の代表作家であった山本光一に師事。
1903年、京都に出て竹内栖鳳に師事。
当初は京都の新古美術品展などに出品を重ねていたが文展が開催されると
12年の第6回文展にて初入選。14年に褒章、18年に特選を受賞、19年の第一回帝展にも特選を受賞。
昭和期には35年に帝国美術院会員に就任。
36年に京都市立美術学校の教授、さらに栖鳳没後は私塾石崎塾を開校して後進の指導にも貢献。

当初は琳派の色合いが強い装飾的な画風であったが、
1916年のインド外遊を皮切りに大正~昭和初期にかけて度々にインド、ヨーロッパを取材して
伝統的な琳派の技法と海外の技法を交えた近代日本画を構築し
華麗で色彩豊かな花鳥図、鳥図などを得意とした。
さらに晩年になると琳派の装飾性を抑え写実的要素を多く含んだ画風に変化している。

代表作に「燦雨」「寂光」他

印名は「琨」 「琨印」 「光瑤」 など

石川晴彦

石川晴彦 (いしかわはるひこ、明治34年(1901)生まれ。 79才没)
京都生まれ。名は利治。

1914年 京都市立美術工芸学校に入学。入江波光の弟子となり、波光宅に起居する。
第4回国画創作協会展に「老父」「顔」が入選。「老父」は村上華岳が買い上げた。

1936年 妻静子が死去、その直前に初めての仏画作品を制作。
その後、仏画や水墨による山水画を発表する。

石踊達哉

石踊達哉(いしおどり たつや、1945年(昭和20)~(現在))
満州(帰国後は鹿児島)出身。

画家を志し上京。東京芸術大学に学ぶ。
在学中から新制作協会などに出品。
1975年、春季創画展に出品(’76年春季展賞受賞)
大学院卒業後も創画会、山種美術館賞展などに出品を続ける。
1980年、東京セントラル美術館日本画大賞展に招待出品。
1990年、「両洋の眼 現代の絵画展」に出品。
1998年、瀬戸内寂聴と「源氏物語絵詞」(講談社)を出版。
2006年、「両洋の眼 心に残る美術展」に出品。

80年代からは画壇から離れ、個展を中心に活躍し氏独自の前衛画風の魅力を展開している。

印名は「石」「踊」「達」など

石井林響

石井林響(いしい りんきょう、1884年(明治17)~1930年(昭和5))
千葉県出身。本名は、穀三郎。号は、天風、山骨子、五松居、其山、等

初めは地元の洋画家で指導者でもあった堀江正章に画力を見出され画家を志す。
1902年、橋本雅邦の門下となる。
同年、双葉会にて初入選。05年には優賞。
文展が開設されると、07年第1回分展にて入選、12年に褒状を受賞。
1907年、国画玉成会や9年に島田墨仙らと如水会の結成に参加。
1922年、第4回帝展にて特選を受賞。

文化功労者の秋野不矩の師匠としても知られる。
代表作に「寒山」「総南の旅から(三幅対)」「炭を焼く」他

印名は「林響」 「林人」 「響子」 「五松」 など

池大雅

池大雅(いけ たいが、1723年(享保8)~1776年(安永5))
本名は池野、(幼名)又次郎。通称、秋平
号は、子井、霞樵、大雅(大雅堂)、待賈堂、九樵、九霞山樵、三岳道者、他

幼少期より画を卓越していたが15歳のころより大和郡山藩の絵師、柳沢里恭に師事。
また独自に中国南宋派の画技や、俵屋宗達の大和絵の画風を取り入れながら画風を樹立し
各地の寺院仏閣の襖絵などを制作、近代日本南画の大家として知られる。
高 芙蓉とも深く信仰があり、自ら印章を刻した。
その風雅ある書体は独自のもので、ライバルの蕪村と良く見せ合ったと言われている。

代表作に山水羅漢図(黄檗山万福寺襖絵)、十便十宣帖(与謝蕪村合作:国宝指定)、等

印名は「大雅」 「大雅堂」 「大雅主人」 「池無名印」 「無名」 「九霞道人」 「九霞山人」 「霞樵」
「貸生」 「貸成氏」 「王皇香案史」 「池勤之印」 「己行千里道未読萬巻書」 「東山無名」 「三岳道者」
「公敏」 「野池」 「无名」 「无名之印」 「吸日月之休光」 「深湾池氏」 「前身相馬方九皐」 「臣乗居」
「遵生」 「五日弌山十国?水」 「茂梥清泉」(「茂松清泉」) 「狩野子井」など

池田遙邨

(いけだ ようそん、明治28年(1895)11月1日~昭和63年(1988)9月26日 92才没)。
岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)生まれ。本名は池田昇一。

幼少より画才があり、明治43年(1910)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。
大正3年(1914)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。

大正8年(1919)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。
同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。
大正15年(1926)京都市立絵画専門学校研究科(現・京都市立芸術大学)を卒業。
昭和3年(1928)第9回帝展にて「雪の大阪」が、昭和5年(1930)第11回帝展で「烏城」が、それぞれ特選となる。

京都市立絵画専門学校助教授
日本芸術院賞受賞
日本芸術院会員
昭和59年文化功労者
昭和62年文化勲章受章

鑑定人・鑑定機関

ギャラリー鉄斎堂
京都市東山区新門前通東大路西入ル梅本町262
Tel:075-531-6164
http://www.tessaido.co.jp/gallery.html

池田輝方

池田輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16)~1921年(大正10))
東京都出身。本名は正四朗、号は輝方、崋山。

1895年、水野年方の内弟子として入門。浮世絵を学ぶ。
1901年、同門であった鏑木清方らが結成していた烏合会に参加。
翌年には第12回内国絵画共進会展にて一等褒状を受賞。
1907年より川合玉堂より指導を受けている。

1911年、婚約中であった同門の女流画家榊原蕉園(池田蕉園)と結婚。
この頃より文展にも出品を重ねるようになる。
12年に褒状、16年第10回文展では特選を受賞。
1919年、妻や山内多門、石井林響らとともに如水会を結成。以後は同会や帝展などにて活躍を示した。

当初の水野年方の影響を巧く引き継いでいるが、より現代風に細やかな描写を加え
人物、風物などを描写、浮世絵風の風俗画家として現在でも高く評価される。

印名は「年山」 「花山」 「曙」 「天流佳多」 「篤山」 など

池田蕉園

池田蕉園(いけだ しょうえん、1888年(明治21)~1917年(大正6))
東京出身。本名は百合子

幕末~明治初期にかけての鉄道界の功労者で、書画などにも通じた榊原鉄硯の娘として生まれる。
はじめ、水野年方門で画を学び、師没後は河合玉堂の指導を受ける。
また、水野年方門で同門であった、池田輝方と結婚して池田姓となる。
文展には、1907年の第一回展に「もの詣で」で二等賞、08年第二回展「やよひ」三等賞、
09年第三回展「宴の暇」、10年第四回展「「秋のしらべ」「冬のまどゐ」共に三等賞
(この年まで榊原蕉園名義で出品、以後11年第五回展より池田蕉園名義で出品)、
11年第五回展「髪」褒状、12年第六回展「ひともしごろ」、14年第8回展「中幕のあと」がそれぞれ褒状、
15年第9回展「かへり道」が三等賞、16年第10回展で「こぞのけふ」が特選を受賞するなど
文展において活躍を示す。
当時、島成園、上村松園と共に閨秀三園として人気を集めた。

印名は「ゆり子印」「裕里子」「蕉園」など

池田桂仙

池田桂仙 (いけだけいせん 昭和6年(1931)生まれ 69才没) 三重県に生れる。南画家の池田雲樵の子。名は政昌、通称は勝次郎。
父に指導を受け、明治7年父とともに京都に移住。京都府画学校に入学。
大正6年第11回文展で特選。
大正15年第1回聖徳太子奉賛美術展に「夏渓煙雨」「寒山行旅」を発表する。

日本自由画壇、日本南画院の重鎮。