沢田宗沢(さわだ そうたく、1830年(天保元年)~1915年(大正4))
本名は次作のち宗次。号は宗沢斎。
幕末期から大正初期まで活躍した金沢の蒔絵名工。
加賀印籠蒔絵師梅田三五郎に技法を学び、明治期には国内外の博覧会などで活躍。
写実的な鳥類や魚類、虫類などを重厚感と相反する清楚さを併せ持つ表現で
当時の蒔絵師のなかでも高い評価を得た。
また、光琳風の水の流れを作品に取り入れた作品を多く制作。
印名は「宗澤」
沢田宗沢(さわだ そうたく、1830年(天保元年)~1915年(大正4))
本名は次作のち宗次。号は宗沢斎。
幕末期から大正初期まで活躍した金沢の蒔絵名工。
加賀印籠蒔絵師梅田三五郎に技法を学び、明治期には国内外の博覧会などで活躍。
写実的な鳥類や魚類、虫類などを重厚感と相反する清楚さを併せ持つ表現で
当時の蒔絵師のなかでも高い評価を得た。
また、光琳風の水の流れを作品に取り入れた作品を多く制作。
印名は「宗澤」
番浦省吾(ばんうら しょうご、1901年(明治34)~1982年(昭和57))
石川県出身。
24歳の頃に京都に出て漆工芸を学ぶ。
1930年、第11回帝展にて初入選。以来、戦前は帝展、文展と官展系に出品を重ねる。
1936年、文展選賞を受賞、また翌年のパリ万博展では名誉賞を受賞。
戦後は日展を中心に出品を続ける。
1948年に東都漆芸創人会(朱玄会)を創立し近代漆芸の先駆的な活動を示した。
1963年「象潮」により日本芸術院賞受賞。
作品では既存の漆芸にはない技法や新しい取り組みを次々に創案し、
伝統技法を尊重する一方で現代性を重視したデザインを展開した。
山下甫斎(やましたほうさい、1944年(昭和19)~(現在))
石川県出身。
漆芸技法を父・山下清峯に学ぶ一方で下地や蒔絵の技法は独自の研究から修得。
茶道具を中心に制作する。
茶道具の制約を守った上で、斬新さや大胆さを持った現代風の道具造りを展開、
特に展覧会や個展には出品しておらず、作家というよりは職人的な立場をとって制作を続けている。
代表作に「雲龍蒔絵大棗」、「波車蒔絵大棗」など。
印名は「甫斎」 など
(ながの おうてき)
江戸後期の蒔絵師。
俗称は次郎兵衛、橘屋と称する。
名工として聞こえ、殊に茶器類の蒔絵を巧みにした
金城一国斎(7代、きんじょう いっこくさい、1965年(昭和40)~(現在))
広島県出身、本名は池田昭人
初代を祖とし、二代より一子相伝で受け継がれる高盛絵の技法を現代に伝える漆芸家として有名。
初代澤木正平が大坂で漆芸を学び、その後、尾張藩に召され御用絵師となり、
金城一国斎と名乗ったのが初めとされる。
また、伝統の高盛絵の技法は、二代一国斎が考案したものとされ、代々受け継がれている。
また改良研究がなされており、三代の時代になり明治に入ると、各展覧会、博覧会などにも出品し
明治九年の京都博覧会や明治十年の第一回内国勧業博覧会で受賞を重ねる。
また明治天皇御用品の製作等も手がけこの時代の作品には手間、暇、金などを惜しまずに製作されおり、
煙草入れをひとつ製作するのに、一年余の製作日数をかけており、
一般庶民の手の出せない品物となっていたため、主に外国人を取引相手としている。
この時代の作品の美術性が高い事もさることながら、現存が極端に少なく現在、市場においても
高く評価されている。
四代~六代の一国斎にしても、やはり展覧会などを中心として活動し、しばしば慶事があると
広島県からの献上品として皇族に納められた。
特に五代一国斎は、高盛絵のほかに当時の漆芸家の最高峰であった赤塚自得に師事し
金蒔絵の技術を取得し、それまで赤、黒、褐色、緑といった濃色を中心とした高盛絵に金を用いて
華やかさを演出し、その幅や可能性を構築した。
現在七代の昭人氏が日本伝統工芸展などに出品して活躍中だが、高盛絵作品のほかに
彫蒔絵の作品を多く製作し、現代感覚溢れる作風で新たな境地を画策している。
北村昭斎(きたむら しょさい、1938年(昭和13)~(現在))
奈良県出身。
奈良の漆工芸を家業とする北村家に生まれる。
祖父久斎、父大通の下で修行を重ね、蒔絵や螺鈿細工を用いた道具造りを展開しており
伝統技術を継承する傍らで現代的な造形を取り入れた作品を制作。
奈良国立博物館に30年余り文化財の保存、修理に従業しており春日大社の古神宝の修理なども手掛けている。
1999年「螺鈿細工」技術により国指定重要無形文化財(人間国宝)の認定を受ける。
印名は、「南都昭斎」「昭斎之印」「昭斎」「先種庵」など
川之辺一朝(かわのべ いっちょう、1830年(天保元年)~1910(明治43))
室町時代からなる漆芸蒔絵の幸阿弥派を受け継ぐ最後の漆工。
幕末~明治後期にかけて活躍、幕末時は将軍家の婚礼、祭事などの際に蒔絵調度品を製作。
明治維新後は宮内省の御用を務め、ウイーン万国博をはじめ内外の博覧会などに出品。
東京美術学校より招聘を受け白山松哉の代行教諭として後進の指導に尽力。
1896年に蒔絵技法で帝室技芸員を拝命する。
印名は「一朝」など
川端近左 6代(かわばた きんさ、1947年(昭和22)~(現在))
大阪府出身。京都市立芸術大学塗装科卒
5代 川端近左の長男として生まれる。
大学卒業後より本格的に父に師事して家業に従業。
日本工芸会近畿支部展や大阪工芸協会展などに一价名義で作品を出品。
2000年に、前年の父の没に伴い6代を襲名。
日本工芸会所属
川瀬表完(かわせ ひょうかん)
京都市出身
江戸末期の京塗師木村表斎を祖とする「表派」の技法を受け継ぐ京塗師で
初代川瀬千太郎、二代繁太郎、三代厚、(現4代当主は三代表完川瀬正)に渡り、
各種茶道具、調度品などの漆製品を主に手掛け、二代繁太郎より「表完」を号する。
川瀬 厚(二代東山表完)(1933~2007年) 父初代表完(繁太郎)に師事。
日展、日本新工芸展、京都工芸美術展などに出品を重ねた。
現在は全国各地の百貨店を中心に個展にて発表。
京漆器伝統工芸士会会長、京都漆芸家協会会員、京都美術作家協会会員。
溜塗、木地溜塗、一閑塗、布摺塗などの伝統技法を守りながらも現代的な造形や文様を取り入れた茶道具造りを展開。
印名は「表完」など
梶川文龍斎(かじかわ ぶんりゅうさい、(宝暦)~(文化頃))
宝暦年間(1751~1753)頃~文化年間(1804~1817)頃に活躍した蒔絵師で
「官工梶川文龍斎」等の花押が捺されている作品が多く残ることから、
徳川幕府のお抱え蒔絵師として名を残す。
また、現存作品の書銘、花押の違いから少なくとも3代は続いたと推察されている。
印籠、硯箱、盃などを残す。
刻印は「梶川作」「梶川文龍斎」など