酒井抱一

酒井抱一(さかい ほういつ、1761年(宝暦11)~1828年(文政11))
江戸出身。本名は忠因。

播州姫路藩主酒井忠仰の次男として江戸神田の姫路藩邸に生まれる。
幼少時より武術、漢詩、俳諧、画など文武を修練。
25歳頃からは歌川豊春流の浮世絵の技法を身につけるなど多芸に秀でて、
元々風流を好んだ人であったが、1793年に33歳の若さで隠居の身となり、
その後は1797年に出家得度し、僧籍を得て、公然的に風流や道楽の道に邁進。

画業については、はじめ狩野派、次いで沈南蘋風の長崎画、前出の浮世絵、
さらには土佐派、円山派など諸派の研鑽を経たが、寛政年間の頃に尾形光琳や俵屋宗達といった
琳派の絵画世界に私淑、また傾倒を示すようになる。

代表作に「夏秋草花図(重文指定)」など

酒井三良

酒井三良(さかい さんりょう、1897年(明治30)~1969年(昭和44))
福島県出身。本名は、三郎。号は、三良子のち三良、梧水

日本美術院監事。
同郷の画家坂内青嵐に師事。
後に小川芋銭と知り合い、院展に出品するようになる。
大正10年院展初入賞を果たし、13年には日本美術院同人に選出されている。
昭和14年、中国を1カ月ほど訪れる。以後は奥村土牛らと京都、奈良、熊野、南紀地方、
また木曽地方や東北などを足繁く旅行する。
21年、横山大観のすすめで茨城県五浦の大観別荘に移る。
29年 東京杉並・久我山に転居。
37年には、院展文部大臣賞を受賞しており、その地位を確固なものとした。

画風は、主に農村風景など、自然と人物などの調和を基本とし、
詩情豊かに表現した。

代表作に「かまくら」等

印名は「三良画印」「三良」「三良子」など

近藤浩一路

近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884)~昭和37年(1962) 78才没)
山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。明治初期の実業家・教育者である近藤喜則は祖父にあたる。

1904年、洋画家和田英作の白馬会研究所に所属し、東京美術学校西洋画科へ入学。
同級生の藤田嗣治らと共に新しい時代の絵画を吸収する。卒業後、白馬会や文展へ出展し入選。

1915年読売新聞社に入社。漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。
のちに時事新報社に移り、菊池寛や芥川龍之介らと親交。

1922年、同級生の藤田嗣治を頼りヨーロッパ各国を旅行する。
半年間のフランス滞在などで西洋文化に触れる。
また朝鮮・中国への旅行を通して東洋文化にも触れ、その違いを学ぶ。
近藤は、この時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている。

洋画の光線表現を水墨画に取り入れ、独自の技法を確立。
画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷している。

小谷津雅美

小谷津雅美(こやつ まさみ、1933年(昭和8)~2011年(平成23年))

1955年より安田靫彦に指導を受けて院展に出品する。
60年に奨励賞を受賞。以来、63、64、68~72、83、85~87、89、91年と奨励賞を受賞。
この間、62年には日本美術院賞次賞、また、春の院展においても
奨励賞を20数回受賞しており、64年に院展特待、98年に院展同人に推挙されている。

近年の活躍では、2003年に第88回展にて文部大臣賞、2006年に第91回展にて
内閣総理大臣賞を受賞し、院展の看板画家として活躍を続けている。

金銀彩など多彩な色使いと細やかな筆致により花鳥や蝶々、草花などを展開し
琳派を彷彿させるかのような雅趣味溢れる世界観を表現している。

印名は「雅美」など

小室翠雲

小室翠雲(こむろ すいうん、1874年(明治7)~1945年(昭和20))
群馬県館林出身。本名は貞次朗。号は翠雲。

明治40年、文展開設に際し、荒木十畝らと正派同志会を立ち上げる。
正派同志会副委員長として文展新派に対抗した。

第2回文展より連続入賞を果たし、文展審査員を歴任。
また矢野橋村、田辺竹邨らとともに、日本南画院を設立し南画の発展に尽力した。
南画の伝統を守り、高い評価を得た。

代表作に「春雨蕭々」など

昭和19年帝室技芸員拝命。帝国美術院会員。
南画の大家。
父は日本画家・小室桂邨。

小村雪岱

小村雪岱(こむら せったい、1887年(明治20)~1940年(昭和15))
埼玉県川越出身。本名は泰助。東京美術学校日本画科卒

はじめ、東京美術学校日本画科、下村観山教室を卒業。後は荒木寛畝の画塾に学ぶ。
その後、岡倉天心らがおこした國華社に入社する。
そこで仏画や古画や絵巻物や浮世絵を版下にする仕事に従事。
泉鏡花との知遇を受けて、鏡花作品の装幀・挿絵を長年にわたり担当。
1917年より資生堂意匠部に入社。
香水の売出し企画に「源氏五十四帖」を舞台模型にして、評判をとったといわれる。
資生堂を退社後は京都に居を構え、装幀・挿絵に加えて舞台美術の仕事を手掛ける。
1933年より「朝日新聞」に連載が始まった邦枝完二の『おせん』の挿絵を担当したころより、
灯台切手の挿絵画家としての地位を確立。
泉鏡花の作品を主に手掛けたが、それ以外にも村松梢風『綾衣絵巻』『残菊物語』、
邦枝完二『江戸役者』『お伝地獄』、眞山青果『唐人お吉』、野村胡堂『銭形平次捕物控』など
多くの作家と共に次々に名作を手がけた。
昭和15年10月17日53歳没。

印名は「雪岱」 など

小松均

小松 均(こまつ ひとし、明治35年(1902)1月19日~平成元年(1989)8月23日 87才没)
山形県北村山郡大石田町生まれ。

川端画学校卒業。土田麦僊に師事する。
新樹社に参加。1986年文化功労者。

晩年は京都市左京区大原井出町に居を構え、大原の風景を題材にした作品を多数残し「大原の画仙人」と称せられた。
大原風景シリーズ・最上川シリーズ・ 富士山シリーズなどで独自の水墨画世界を築く。
没後、1990年に、その旧宅に小松均美術館が開館した。

小堀鞆音

小堀 鞆音(こぼり ともと、文久4年(1864) 3月26日~昭和6年(1931)10月1日 68才没)
栃木県に生まれる。旧姓は須藤、本名は桂三郎。

川崎千虎に師事し、土佐派の絵と有職故実を学ぶ。
門下に安田靫彦、川崎小虎。

歴史画を得意とし、代表作に「武士」がある。勤皇家としても知られる。

東京美術学校教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、国宝保存会医院

小林巣居人

小林巣居人(こばやし そきょじん、1897年(明治30)~1978年(昭和53))
茨城県出身、本名は小林 善(ぜん)
新興美術院創立同人

平福百穂に師事。
院展などで出品する。
1937年に田中案山子、茨木杉風らと共に新興美術院を結成。
以降同院に出品、また発展に尽力した。
また、子息に日本画家小林恒岳がおり、没後の現在でも父子展として各地で好評を得ている。

やや抽象的な画風を確立して、郷里の茨城の田園風景などをよく残している。

印名は「巣居」 「善印」 など

小林古径

小林 古径(こばやし こけい、明治16年(1883)2月11日~昭和32年(1957)4月3日 74才没)
新潟県高田(現上越市)に生まれる。

39歳より渡欧留学。
翌年、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写。
古径は東洋絵画の命である線描の技術を高めた。
前田青邨・安田靫彦と共に日本美術院の三羽ガラスと称される。

代表作「髪」は、裸体画として日本で初めて切手のデザインとなった。

東美校教授、帝室技芸員、日本美術院同人 芸術院会員、文化勲章受章、文化功労者

新潟県上越市には、小林古径記念美術館がある。