呉昌碩

呉昌碩(ご しょうせき、1844年~ 1927年)
淅江省鄣呉村出身

篆刻家であった父に、幼少期より篆刻を学ぶ。
1856年、22歳の頃に学問を究め、各地の儒者として勤める。
その後も上海、杭洲などで、呉雲、呉大徴、潘祖陰らと交友。
また、画を任伯年に学んで、本格的に開始する。
82年には蘇洲、ついで上海に居を構え篆刻と、画業で生活を始める。
94年に日清戦争が始まると、呉大徴の幕客として活躍を示す。
また、1903年には、西湖畔に西冷印社を設立して、社長に就任。
以降は会社経営、画家、篆刻家を業とした。

画風は西洋紅を用いた(中国人画家では呉昌碩が初めて用いたとされる)発色で品格ある
個性的な力強い筆致を特徴として、桃、桃、梅、菊、竹などのモチーフに
自身の詩や書を付した作品を多く遺し、山水の作品はあまり見られない。

木島桜谷

木島桜谷 (このしまおうこく 明治10年(1877)~昭和13年(1938) 62才没)
京都府出身。本名文次郎。

16才で今尾景年門下に師事。
早くから才能を開花させ、明治40年の第一回文展で二等賞。入賞を続ける。
大正2年第七回文展では審査員。
帝展でも審査員、帝展委員を務めるかたわら、
京都市立絵画 専門学校教授として後進の指導にあたった。

山水・花鳥・人物、特に動物の描写を得意とする。

後藤純男

後藤純男(ごとうすみお、昭和5年(1930)~)
千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)の住職の子として生まれる。

山本丘人、田中青坪に師事。
1965年に日本美術院賞を受賞。1976年に文部大臣賞を受賞。
中国の西安美術学院名誉教授に就任。
内閣総理大臣賞を受賞。

東京芸術大学教授。1997年に退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市に後藤純男美術館を開館。

埼玉県北葛飾郡松伏町の名誉町民

後藤順一

後藤順一(ごとう じゅんいち、1948年(昭和23)~(現在))
京都市出身、京都市立芸術大学

京都市立芸術大学を卒業後、フランス美術賞パリ展、海洋博を描く現代絵画展、
シェル美術賞展、次代への日本画展などの展覧会に出品する。
1984年、春の院展初入選(以降連続入選)及び、85年第70回院展初入選(以降連続入選)となる。
さらに92年第77回院展奨励賞(以降も連続受賞)。
93年、春の院展奨励賞(以降も連続受賞)を受賞、96年には春の院展外務大臣賞を受賞。
これから益々注目される作家の一人とされる。

印名は「順」など

現在 日本美術院特待 下田義寛に師事。

児玉希望

児玉 希望(こだま きぼう、明治31年(1898)~昭和46年(1971) 73才没)
広島県出身、本名・省三。

川合玉堂に師事。文展、日展に出品。
1950年伊東深水らと日月会を結成。

日本芸術院賞受賞、日展評議員、日本芸術院会員。
日展常務理事。勲三等旭日中綬章受章。

児玉果亭

児玉果亭(こだま かてい、1841年(天保12)~1913(大正2))
長野県生まれ。本名は道弘。号は玄山、果亭、竹僊、黙契神会草堂、果翁、他

初め雪窓に、南蘋派の画を学ぶ。
その後京に出て、田能村直入に南画の指導を受ける。

主に南画の山水図などを得意とし、内国絵画共進会・東洋絵画共進会で活躍する。
また後進の指導にも尽力し、門下から菊池契月、丸山挽霞、小阪芝田などといった
後の日本画壇の代表者らを輩出した。
大正2年、71才没。

落款印は「竹仙」「士毅氏」「果亭」「道弘私印」など

小杉放菴

小杉 放菴(こすぎ ほうあん、明治14年(1881)12月30日~昭和39年(1964)4月16日) 82才没)
栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。
本名は国太郎、別号に未醒、放庵。

1896年に日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となる。
1900年に再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門する。
1908年、美術誌『方寸』の同人に加わる、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。

独自の枯淡な境地を創造し、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。

国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。
日露戦争に従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。

帝国美術院会員、日光市名誉市民

国府克

国府克(こくふ かつ、1937年(昭和12)~(現在))
京都府出身、京都市立日吉ヶ丘高校日本画科卒

高校卒業後、1957年より堂本印象の東丘社に入塾。
同社展と日展、京展を中心に出品を重ねる。
69年、改組第1回日展にて特選・白寿賞を受賞。
京展では77年の京展賞を含み4度の受賞を数え、また、日春展においても75年に奨励賞、
87年には日春賞を受賞。そのほか関西展などでも活躍を示している。

長年、「自然」特に「山岳」に主題を絞り作品を制作しており、
日本のみならず、ヒマラヤ、エベレスト、中国など海外の山を描き続ける。
近年は、日本回帰して冨士をテーマに作品を制作。
山々から感じられる圧倒的な生命力を写実描写により表現している。

印名は「克」など

幸野楳嶺

幸野 楳嶺(こうの ばいれい、弘化元年(1844)3月3日~明治28年(1895)2月2日 52才没)
京都生まれ。名は直豊、幼名は角三郎、字は思順、号は楳嶺、他に鶯夢、長安堂、青龍館、六柳北圃など多数。
円山派の中島来章の門に入門する。後に四条派の塩川文麟のもとで号を楳嶺と改める。

楳嶺の特徴と言えば、教育的にして知性と感情が調和したような作風を指すのが一般的である。
応挙の写生主義と南画の精神主義の調和を目指し、艶麗で華やかな花鳥画を得意とした。

また教育者としての面も強く出ている。後進の指導にも優れ、
楳嶺四天王の竹内栖鳳、都路華香、谷口香嶠、菊池芳文をはじめ、川合玉堂、上村松園らを育て、
現代京都画壇の基礎を築いた。

京都府画学校教師、帝室技芸員

小泉淳作

小泉淳作(こいずみ じゅんさく、1924年(大正13)~(2012年))
神奈川県鎌倉市出身。東京美術学校卒

東京美術学校在学中に学徒出陣を経験、戦後47年に復学して52年に卒業。
卒業後、山本丘人に師事。
54年、第18回新制作協会展にて初入選。
以来、同会展及び(74年からは)創画会展に出品・入選を重ねるが、
76年の第3回創画会展を最後に、画壇とは一線をおいた、無所属作家として活動。

以降は、個展を中心に制作活動を行う。
77年の第4回山種美術館賞展では優秀賞を受賞。

62年より陶芸での自己表現にも挑戦し小城久次郎(師・富本憲吉)に師事して
食器類を中心に赤絵、染付、白磁などを製作。
個展では日本画と陶芸のコラボレーションを度々開催。

日本画では花・山水風景、野菜、果実など淡彩写実により華麗な作域を展開する。

印名は「淳」など