喜多川歌麿
喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)2代
最近の研究で、2代歌麿は1806年(文化3)歌麿が没した後、自称2代を名乗った、2代歌麿と
1814年(文化11)に正式襲名した恋川春町(2代)とが存在することが分かっている。
その後も「歌麿筆」(哥麿筆)の肉筆画は後を絶たず、判然としないものが数多く混在する。
今後、更なる研究を待つこととなる。
印名は「春町」など
北尾重政
北尾重政(きたお しげまさ、1739年(元文4)~1820年(文政3))
江戸出身。本名は北畠佐助。通称は久五郎
江戸横山町の書肆(出版物販売業)須原屋三郎兵衛の長男として生まれる。
家業の絵本や鳥居派などの画法を参考に、独学にて浮世絵を描き北尾派を創始。
18世紀後半~19世紀初期において勝川春章・鳥居清長らと共に並び称された人気絵師の一人。
1776年には勝川春章と競作で「青楼美人合姿鏡」を刊行、その後、絵本に専念するようになり
理知的な美人画を得意としたが、艶姿な女性を描いた春画作品にも秀作を残している。
門人に北尾政美・北尾政演・窪俊満などを輩出した。
印名は「紅翠」 「東都弌家」 など
岸竹堂
岸竹堂(きし ちくどう、1826年(文政9)~1897年(明治30))
彦根(滋賀県)出身。本名は昌禄。通称は八郎。
はじめは、地元の画家中島安泰に、画の手ほどきを受けていた。
京にて狩野永岳、次いで岸連山に師事。
その後、連山の養子となり、共に御所御堂御殿の襖絵制作などに従事する。
明治23年には、内国勧業博覧会にて二等銀牌を受賞。
明治29年には、帝室技芸員に拝命されるなど活躍した。
印名は「竹堂」「竹堂生」「岸緑字士和」「一日不作二日不貧」
菊池芳文
菊池芳文 (きくちほうぶん、文久2年(1862)~大正7年(1918) 57才没)
大坂の書画を扱い表具を行った家に生まれる。
滋野芳園に師事。京都に出て幸野楳嶺に入門する。
早くから評価を受け、日本美術協会、日本絵画協会の双方に出品。
竹内栖鳳、谷口香きょう(山喬)、都路華香とともに楳嶺門下の四天王と称される。 京都画壇の重鎮で花鳥画で有名、特に桜の絵を得意とした。
文展では、第1回展から審査員を務める。
菊池塾を主宰し、後進の育成にも尽力した。
菊池容斎
菊池容斎 (きくち よさい、1788-1878)
幕府の御徒、河原武吉の子として江戸に生れる。通称量平。
1802年、江戸城西丸御徒務めとなる。
1805年、狩野派の画家、高田円乗の門に入る。
1825年、病気のため西丸御徒を退役。これを機に父方の菊池姓に復したと思われる。
また、この頃から狩野派を基礎にした初期の画作が見えはじめる。
1828年、近畿方面の史跡探訪。吉野の如意輪寺で後醍醐帝の御像制作を依頼される。
1836より『前賢故実』を手がける。『前賢故実』は、古代から南北朝にいたる天皇につくした忠臣烈婦など
571名の画像に評伝をつけた版本で、1843年に初編二巻が発行。
1868年、刊行なった『前賢故実』全十巻が明治天皇に献上される。
1875年、明治天皇より「日本画士」の称号をもらう。
1878年、死去。
以降、生前のこうした事蹟から勤王画家としてのイメージが定着するが、 画制作においては一流派にとどまることなく東西の様々な画風を学んで覇気のある作風を打ち立て、 その門下から松本楓湖や渡辺省亭などが輩出。また『前賢故実』は、明治の歴史画の手本として多く利用された。
菊池契月
菊池 契月(きくち けいげつ、明治12年(1879)~昭和30年(1955) 63才没)
長野県出身。菊池芳文門下。その養子となる。
1918年京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)教授。
1922年から一年間の渡欧後、東西両美術の融合を目指す。
大和絵と近代絵画を融合させた新古典的人物画に独自の境地を拓いた。
1925年帝国美術院会員。1932年京都市立絵画専門学校校長。
1934年帝室技芸員。1937年帝国芸術院会員。1947年日本芸術院会員。
川村曼舟
川村曼舟(かわむら まんしゅう、明治13年(1880)~昭和17年(1942) 63才没)
京都生まれ。名は万蔵。
山元春挙に師事。
京都市立美術工芸学校教諭。
1908年文展で三等賞、1916年「竹生島」で特選、翌年「日本三景」で特選。
1922年京都市立絵画専門学校校長(兼美術工芸学校長)
春挙門下四天王の一人と言われ、師の没後早苗会を主宰。 関西画壇の雄と称される。
自然の美しい風景を洗練された感覚で描いた。
1931年帝国美術院会員、37年帝国芸術院会員。
川本末雄
川本末雄(かわもと すえお、1907年(明治40)~1982年(昭和57))
熊本県出身。東京美術学校卒
東京美術学校を卒業後は、松岡映丘に師事して伝統的な大和絵の技法を学ぶ。
戦時中は召集となる。
戦後、48年に日展初入選。翌49年に特選を受賞、53年には特選・白寿賞・朝倉賞と3タイトルを受賞、
71年に文部大臣賞と日展での評価を高める。
76年に前年の日展出品作「春の流れ」により日本芸術院賞・恩賜賞に選出。
当初花鳥や人物を描いていたが、戦後は郷里の菊池川周辺の自然風景をモチーフに
市場豊かに展開。古画のもつ古典的装飾性と現実的な写実性を併せ持つ画風を確立し
大和絵表現の新たな解釈を求めた。
印名は「末雄」 「雄印」 「火之國人」(「火之国人」) など
川辺御楯
川辺御楯(かわべ みたけ、1839年(天保9)~1905年(明治38))
筑後国(福岡県)出身。号は、御楯、華陵、鶯外、墨流亭、後素堂、等
筑後柳川藩士で画家でもあった、川辺正胤の子として生まれる。
父及び久留米藩の絵師三善真琴に、狩野派の画技を師事。
幕末時には藩士として国事に奔走し、長州討伐戦にも従軍、また、高杉晋作、三条実美らとも交流。
明治に入ると、明治政府の大政官に出仕。
画業では1968年より、土佐光久に師事。
大和絵の技法を学び狩野派から土佐派へと画風の転向を示し、
さらに、伊勢神宮権禰宜を務めて、有職故実の研鑽を深める。
日本美術協会展をはじめ明治期から開催され始めた各種展覧会に出品を重ねた。
そのほか、奈良正倉院宝物模写、東宮御所襖絵、皇居杉戸絵などを担当。
狩野派の作品よりも土佐派の作品に秀作を多く残す。
代表的な門下には近代絵画の巨匠中村岳陵がいる。