狩野常信

狩野常信(かのう つねのぶ、1636年(寛永13)~1713年(正徳3))
江戸出身。木挽町狩野派2代目。通称は三位・右近。

狩野尚信の長男として生まれ、父に画法を師事。
1650年に父が没したのに伴い、家督を襲名、木挽町狩野派2代目となる。
さらに、叔父狩野探幽からも指導を受けて、探幽出現以来多様化した狩野派画技の一本化や
集大成を図り、更なる完成度を高めた画家の一人で後年まで続く狩野派の画風の礎を築いたとされる。
幕府の奥絵師、禁裏御用絵師として仕え、探幽と並び当時の画家の最高位である法印に叙されている。
尚、長男に狩野周信、次男に狩野岑信、三男に狩野甫信などがいる。

印名は「藤原」 「狩野」 「狩埜常信」(「狩野常信」) 「常信」 「常信之印」 「古川荘」 「右近」
「法眼養朴」 「白雲玄寉」 「塞雲子」 など

狩野休伯

初代 狩野休伯(かの きゅうはく、1577年(天正5)~1654年(承応3))
京都出身。本名は休伯昌信のち休伯長信(休白長信)

江戸時代前期の狩野派の画家で、狩野松栄の4男で、兄は狩野永徳。
父、兄が没した後、徳川秀忠に仕え、徳川幕府の御用絵師として活躍を示す。
1625年に法橋に叙せられている。

風俗画を最も得意として「花下遊楽図」(国宝指定)の筆者として名高い。

印名は「長信」「藤原」など

狩野松栄

狩野松栄(かの しょうえい、1519年(永正19)~1592年(文禄元年))
京都出身。本名は直信、通称は源七郎、大炊助

狩野元信の3男として生まれる。
父、狩野元信を師事し、画風を継承する。 父の元信と共に石山本願寺墨絵屏風の製作に従事。
また、長男には狩野永徳がおり、聚光院本堂襖絵(国宝指定)などを共作。
父(元信)と子(永徳)の盛名に挟まれて、余り評価の無かったが、
単独の作品でも大徳寺仏涅槃図などを残しており、近年その画技の確かさが再認識されつつある。

印名は「直信」など

狩野山楽

狩野山楽(かの さんらく、1559年(永禄2)~1635年(寛永12))
近江国(滋賀県)出身。本名は木村(旧姓)、平三(幼名)、光頼
京狩野派初代、豊臣家御用絵師

出自は近江国浅井長政の家臣木村長光の子として生まれる。
長政が信長に滅ぼされて以来は、豊臣家に仕えるようになり、秀吉の推挙により
御用絵師であった狩野永徳の弟子となり、娘婿となって狩野姓を名乗る。

秀吉によく仕えて伏見城、大阪城、四天王寺、大覚寺などの障壁画を担当し法橋に叙されるも
豊臣滅亡後は剃髪して、男山(京都府八幡市)に身を隠す。

画風は基本的には永徳を受け継いだが、永徳よりも装飾性を加味して力強い筆致を展開。
特に山水、人物、動植物に秀作を残す。
門下には婿養子の狩野山雪、松花堂昭乗などがいる。
代表作には「帝鑑図屏風」「源氏物語車争図屏風」「犬追物図屏風」など。

印名は「光頼」 「修理」 「壽」(「寿」) など

狩野山雪

狩野山雪(かの さんせつ、1589年(天正17)~1651年(慶安4))
京狩野派二代

京狩野派創始の狩野山楽に師事。
その後山楽の娘婿として狩野姓を名乗りに、京狩野派二代を継承。
南北朝期の仏画家明兆筆「三十三観音像」の補作に従事し、その功により法橋に叙せられている。
門下には松花堂招乗など。

代表作「雪汀水禽図」が重文指定。

印名は「山雪」「狩野」「桃源子」「蛇足軒」「金門画史」など

狩野元信

狩野元信(かの もとのぶ、1476年(文明8)~1559(永禄2))
京都出身。通称は四朗次郎のち大炊助
足利将軍家御用絵師、狩野宗家2代

狩野派始祖の狩野正信の長男として生まれ、幼少のころより画を好む。
また父に師事して、10歳の頃には認められて足利家の近侍となるほどの画才を持つ。
以降、父の後をついで足利家の御用絵師として活躍、法眼に叙せられる。
また、土佐光信の娘を娶ったことで、土佐派の大和絵技法を作品に取り入れて
既存古画の主流であった唐様式の水墨画技法とはほかに、彩色の優雅な作風を確立。
以降の狩野派絵画の道筋を築いたとされている。

また、晩年は剃髪して僧籍となり永仙、玉川と名乗った。

代表作に「大仙院障壁画」、「大仙院障壁画」、「霊雲院障壁画」、「四季花鳥図屏風(六曲一双)」、
「瀟湘八景図」、「神馬図額」などを残しておりいずれも重要文化財に指定されている。

印名は「元信」など

狩野正信

狩野正信(かの まさのぶ、1434年(永享6)~1530年(享禄3))
伊豆出身。姓が藤原、名は伯信

出自は狩野出羽次郎藤原景信(伊豆国加茂郡狩野村の出身の為狩野姓を名乗る、伊豆の豪族であったともいわれている。) の長男として生まれ、幼少のころより画を好み周文・小栗宗丹に師事。
足利義政将軍の御用絵師をしていた宗丹の推挙により足利家の近侍となり
銀閣寺障壁画製作途中に没した際に、そのあとを受け継ぎ以降も将軍家の御用を務め、
これにより画名が一躍有名となり後の狩野派の基盤を築くこととなる。
(この件に関して、宗丹の後を引き継ぐのは雪舟とも言われていたが、帰朝していた雪舟が大坂泉州の寄宿先で、正信筆の花鳥図屏風を見た際、賞賛して宗丹の後を継ぐのは近侍正信がふさわしいと将軍に助言し、自ら辞退したと言われる)

代表作「周茂叔愛蓮図」が国宝に指定されている。

印名は「伯信」 「正信」 「祐勢」 など

狩野興以

狩野興以(かの こい、出生は不明~1636年(寛永13))
下野国(栃木県)出身。本名は信定

出自などは不明な部分が多いが、狩野光信門下の画家で、当初より優れた画技を持つ。
光信、渡辺了慶と共に、高台寺障壁画制作に従事する。
当初より存在感を示し、師の没後も紀州徳川候の御用絵師として活躍。
また、狩野孝信より自分が没した後の探幽・尚信・安信3兄弟の指導と育成を依頼され
彼らの師匠としても尽力を示す。その功績により狩野姓を貰い受けている。

代表作に「当麻曼陀羅縁起絵巻(山楽・山雪・探幽との合作)」など

印名は「原姓」「狩野」「興以」「法橋」など